開拓使官有物払下事件

1881年、開拓長官の黒田清隆が、総額約1400万円の官有物をわずか約38万円で同郷の政商らに売却しようとして大問題となった事件は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

開拓使官有物払下事件 (かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)

1881年

【概説】
1881(明治14)年、開拓長官の黒田清隆が、北海道開拓使の有する官有物(官営事業や財産)を不当に安い価格で同郷の政商である五代友厚らに払い下げようとした事件。藩閥政府と政商の癒着として激しい非難を浴び、大隈重信の政府追放や国会開設の勅諭発布を伴う「明治十四年の政変」を引き起こす決定的な契機となった。

巨額の国費が投じられた開拓使の満期

1869(明治2)年に設置された開拓使は、北海道の開拓と近代化を推進するための官庁であった。1871(明治4)年に立案された「開拓使十年計画」に基づき、明治政府は約1400万円という当時の国家予算規模からして極めて巨額な資金を投じ、農園や炭鉱、ビールや缶詰などの工場、さらに船舶や鉄道などの官有物(官営事業)を次々と整備していった。しかし、これらの事業の多くは採算が取れず赤字を抱えていた。1881(明治14)年にこの十年計画が満期を迎えるにあたり、政府は開拓使を廃止し、その抱える官有物を民間に払い下げる方針を固めた。

黒田清隆と五代友厚による不当な払下げ計画

この払下げにおいて問題を引き起こしたのが、薩摩藩出身の開拓長官・黒田清隆である。黒田は、開拓使の官有物一式を、わずか約38万円、しかも「無利息30年賦(30年間の分割払い)」という破格の安値で払い下げる計画を立てた。その払下げ先として選ばれたのが、開拓使の元官吏らが設立した北海社と、同じく薩摩藩出身の政商・五代友厚らが設立した関西貿易社であった。この計画は、実質的に黒田が同郷の五代らに対して国家の莫大な財産を不当に譲渡しようとするものであり、明らかな情実や権力者と政商の癒着が疑われる性質のものであった。

沸騰する世論と自由民権運動との結びつき

1881年7月、この払下げ計画が新聞等によって暴露されると、社会に大きな衝撃を与えた。当時は、板垣退助らを中心に国会開設や憲法制定を求める自由民権運動が全国的な高まりを見せていた時期であった。民権派や知識人、マスメディアは、この計画を「一部の政商への不当な利益供与」であり「薩長藩閥政治の腐敗の象徴」であるとして猛烈に非難し、払下げ反対の集会や演説会が各地で開かれた。政府の薩長閥は、三菱財閥の岩崎弥太郎や福沢諭吉の門下生(慶應義塾系の人材)が、自らの利権や政治的影響力を拡大するために背後で世論を煽っていると警戒を強めることとなった。

明治十四年の政変への発展と歴史的意義

政府内でも、早期の国会開設を主張していた参議・大隈重信がこの払下げ計画に強硬に反対した。伊藤博文ら薩長閥の政府首脳は、大隈が民権派や三菱と結託して情報を漏洩し、政府の主導権を奪おうと企てているとみなし、彼を排除する決断を下した。その結果、1881年10月の御前会議において、払下げ計画の中止が決定されると同時に、大隈重信とその一派を政府から追放するという強硬措置がとられた(明治十四年の政変)。

さらに政府は、高まる世論の反発を一気に沈静化させるため、同日に国会開設の勅諭を発布し、10年後の1890年に国会を開設することを国民に公約した。このように、開拓使官有物払下事件は単なる汚職未遂事件にとどまらず、明治政府内の権力闘争を決着させて薩長藩閥体制を確立させると同時に、日本の立憲国家体制への移行(憲法制定と国会開設)を決定づけた歴史的な大転換点となったのである。

一外交官の見た明治維新 (講談社学術文庫 2666)

駐日英国公使が克明に記録した、激動の幕末から明治へと転換する日本の姿を独自の視点で捉えた貴重な回想録。

明治デモクラシ- (岩波新書 新赤版 939)

明治期の日本でいかにして民意が形作られ、民主主義の萌芽が育まれていったのかを論理的に解き明かす歴史的考察。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 父・橘諸兄の死後、権力を握る藤原仲麻呂を排除しようと反乱を企てたが、未然に発覚して処罰された人物は誰か?
Q. 三菱が皇居前の広大な土地の払い下げを受け、赤レンガの洋風建築を連続して建てて形成した近代的なビジネス街(地区)はどこか?
Q. 称徳天皇の死後、白壁王(光仁天皇)を擁立し、藤原式家の繁栄の基礎を築いた人物は誰か。