主権在民
【概説】
国家の最高権力(主権)が国民(人民)に存在するという政治思想。日本史においては、明治時代の自由民権運動期にフランス流の急進的な民主主義思想として受容され、板垣退助らを中心とする自由党が強く主張した。
西洋思想の流入とルソーの『社会契約論』
明治維新後、文明開化の波とともに西洋の様々な近代思想が日本に流入した。その中で、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーが著した『社会契約論』は、中江兆民らによって翻訳・紹介され、日本の知識人や運動家に絶大な影響を与えた。「東洋のルソー」と呼ばれた兆民は、国家の主権は本来人民に由来するという主権在民(人民主権)の概念や、生まれながらにして人間が自由と平等の権利を持つとする天賦人権論を平易な言葉で説き、初期の自由民権運動の強力な理論的支柱となった。
自由党の結成と急進的な主権在民論
1881年(明治14年)の「国会開設の勅諭」を受けて、板垣退助を総理(党首)として結成された自由党は、このフランス流の急進的な主権在民論を色濃く反映した政党であった。彼らは、大隈重信らが結成しイギリス流の漸進的な立憲君主制(君民共治など)をモデルとした立憲改進党とは対照的に、より徹底した人民の権利拡大と一院制の議会を主張した。自由党の理論的指導者であった植木枝盛らが起草した私擬憲法(『東洋大日本国国憲按』など)には、強力な基本的人権の保障や抵抗権・革命権までが盛り込まれており、主権在民の精神が極めて鮮明に表現されている。
明治政府の警戒と「主権在君」の確立
一方で、藩閥を中心とする明治政府は、こうした急進的な主権在民の思想が天皇制の根幹を揺るがし、国家の秩序を破壊するものとして強く警戒した。政府は集会条例や保安条例などの弾圧法令を次々と発布し、自由民権運動を力で封じ込める方針をとった。そして、伊藤博文らが中心となって起草し1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法では、君権が極めて強いプロイセン(ドイツ)憲法を模範とし、国家の主権は万世一系の天皇に属するという主権在君(天皇主権)の原則が明記された。これにより、明治時代における主権在民の国家体制への組み込みは完全に退けられることとなった。
大正デモクラシーから日本国憲法への系譜
大日本帝国憲法体制下において「主権在民」を公然と唱えることは、国体変革を企図するものとして厳しい弾圧の対象となった。そのため、大正時代に入り民主主義的な運動が高揚した大正デモクラシー期においても、吉野作造らは天皇主権を法的に前提としながらも、政治の実際の運用においては民衆の意向を重んじる「民本主義」という妥協的な概念を提唱せざるを得なかった。日本において真の意味で主権在民が制度として確立するのは、第二次世界大戦の敗戦後、1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法において「国民主権」が三大原則の一つとして明記されてからのことである。明治期の自由民権家たちが夢見た理想は、半世紀以上の時を経てようやく法的に結実したといえる。