人情本
【概説】
江戸時代後期の化政文化期に流行した、江戸の町人の色恋沙汰や男女の三角関係などの恋愛模様を描いた娯楽小説のジャンル。代表的作家である為永春水によって大成され、当時の女性読者から絶大な支持を集めた。
洒落本からの系譜と人情本の誕生
江戸時代中期の安永・天明期(18世紀後半)には、主に遊廓での遊びの作法や遊女とのやり取りを描いた洒落本(しゃれぼん)という小説ジャンルが流行していた。しかし、老中松平定信による寛政の改革において、風紀を乱すとして洒落本は厳しく弾圧され、代表的作家であった山東京伝らが処罰される事態となった。
これを受けて、戯作(娯楽小説)の作者たちは幕府の検閲を避けるため、舞台を非日常である遊廓から日常の市井(町場)へと移し、一般の町人層の生活や恋愛を描く作品を模索し始めた。文化・文政期に入ると、式亭三馬などが市井の男女の情愛を描くようになり、これが徐々に「人情本」という新たなジャンルとして形成されていくことになったのである。
為永春水による大成と女性読者の支持
この人情本というジャンルを確立し、大成させたのが為永春水(ためながしゅんすい)である。彼は天保3年(1832年)から刊行を開始した代表作『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ)で大成功を収め、江戸中を席巻した。
春水の作品群は、美男子の主人公と複数の女性との間で繰り広げられる三角関係や、一途で情念に満ちた恋愛模様を、リアルな会話文を多用して描き出した点に大きな特徴がある。また、読者層の多くは町人の妻や娘などの女性であったため、作中には当時の最新の髪型、着物の柄、化粧法といった風俗が事細かに描写されていた。すなわち、人情本は単なる恋愛小説の枠を超え、現代のファッション雑誌や恋愛ドラマのような役割をも果たし、女性たちの心を強く惹きつけたのである。
天保の改革による弾圧と文学史的意義
しかし、こうした人情本の大流行は、再び幕府の警戒を呼ぶこととなる。老中水野忠邦が主導した天保の改革(1841〜1843年)において、厳格な風俗統制が行われると、人情本は「風紀を乱す淫本(いんぽん)」とみなされ、徹底的な弾圧の対象となった。
天保13年(1842年)、為永春水は手鎖50日の刑に処せられ、出版に関わった版元も処罰された。これにより、人情本の流行は急速に衰退を余儀なくされてしまった。とはいえ、人情本が切り開いた「市井の男女の心理や情愛を、日常的な会話文を通して写実的に描く」という文学的手法は決して途絶えることはなかった。この系譜は明治維新後の近代文学にも影響を与え、坪内逍遥や二葉亭四迷らが提唱した近代的な言文一致体や写実主義小説へと繋がる、重要な文学史的意義を持っている。