宿屋飯盛(石川雅望) (やどやのめしもり、いしかわまさもち)
【概説】
江戸時代中・後期に活躍した代表的な狂歌師であり、国学者、戯作者。大田南畝(蜀山人)に師事し、天明期に巻き起こった狂歌ブームを主導した、江戸の町人文化を象徴する多才な文化人である。
宿屋経営から始まった天明狂歌の牽引
宿屋飯盛(石川雅望)は、江戸日本橋馬喰町の幕府公認の旅籠(宿屋)「糠屋(ぬかや)」の主人であった。本名は石川雅望であり、狂歌師としての活動において、自らの家業にちなんだ「宿屋飯盛」の別名を名乗った。父は高名な浮世絵師の石川豊信であり、幼い頃から芸術的な環境に恵まれて育った。
雅望は、天明期(1781〜1789年)の江戸で知識人を中心に大流行した狂歌(社会風刺やユーモアを交えた諧謔的な短歌)の世界に身を投じる。狂歌界の第一人者であった大田南畝(四方赤良)に師事すると、瞬く間に頭角を現した。天明3(1783)年には、師の南畝らとともに狂歌集『万載狂歌集』を編纂。この狂歌集の刊行は、江戸における狂歌ブームを決定づける記念碑的な出来事となり、飯盛は朱楽菅江(あけらかんこう)らと並び、「天明狂歌四天王」の一人に数えられる存在となった。
寛政の改革による弾圧と、学者・文人としての新生
しかし、田沼意次期の自由な気風(天明文化)を背景に花開いた狂歌サロンは、松平定信が主導する寛政の改革(1787〜1793年)によって大きな打撃を受ける。幕府による風紀取り締まりや出版統制が厳格化されると、師の大田南畝らは狂歌活動を一時的に自粛し、狂歌界は急速に衰退した。
この逆境にあって、雅望は本名の「石川雅望」名義で、狂歌から国学や古典研究、さらに文学(読本)の分野へと活動の軸を移した。国学者・清水浜臣に学び、擬古文の執筆や古典注釈に没頭した彼は、本格的な国語辞書である『雅言集覧(がげんしゅうらん)』の編纂や、絵師の葛飾北斎が挿絵を担当した読本『飛騨匠物語(ひだのたくみものがたり)』などを執筆し、文人として極めて高い評価を獲得した。
狂歌界への復帰と後世への影響
寛政の改革が一段落した文化・文政期(化政文化期)になると、雅望はふたたび「宿屋飯盛」として狂歌界の指導者に復帰した。この時期の狂歌は、かつてのようなインテリ層による風刺的なものから、地方の庶民や豪農をも巻き込んだ全国的な大衆文芸へと変貌を遂げていた。飯盛は地方の門人を多数指導し、狂歌の普及と定着に大きく貢献した。
飯盛の生涯は、弾圧や政治の変化に柔軟に適応しながらも、独自の知的ネットワークと創作活動を維持し続けた、江戸町人文人のたくましさと文化的水準の高さを示す好例といえる。