四方赤良 (よものあから)
【概説】
江戸時代中期の文人・幕臣である大田南畝(おおたなんぽ)が、狂歌を詠む際に用いた狂名(ペンネーム)。天明期に巻き起こった「天明狂歌」の流行を主導し、江戸の都市文化を代表する旗手となった存在。
天明狂歌の牽引とサロン「四方連」の形成
江戸中期の天明年間(1781〜1789年)、田沼意次政権期における自由闊達な空気の中で、古典文学のパロディや滑稽、諧謔を織り交ぜた短歌である「狂歌」が大流行した。そのブームの中心にいたのが四方赤良である。
赤良は、同じく幕臣であった唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)らと競い合いながら狂歌の裾野を広げた。赤良が主宰した狂歌グループ「四方連(よものれん)」には、武士や商人、さらには狂歌絵本を出版した蔦屋重三郎、浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎など、身分の垣根を越えた江戸の第一流の文化人たちが集った。これにより、当時の江戸は知的で洗練された町人文化(天明文化)の黄金期を迎えることとなった。
幕臣としての横顔と「寛政の改革」による筆折り
四方赤良の正体は、大田直次郎(のちに七左衛門)という徒士(歩行達)家系の優秀な下級幕臣であった。彼は昼間は幕府の公務をこなし、夜は「四方赤良」として狂歌を詠み、時には「寝惚先生(ねぼけせんせい)」の名で狂詩を著すという、二面性のある生活を送っていた。
しかし、田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まると、状況は一変する。幕府による思想・言論統制(寛政異学の禁など)や、出版統制が強化される中で、幕臣という立場にある赤良は身の危険を感じ、天明狂歌の筆を折る(活動を自粛する)ことを余儀なくされた。その後、寛政6年(1794年)には、幕府が優秀な人材を登用するために実施した「学問吟味」を受験し、見事に甲科で合格。その後は支配勘定などの要職を歴任し、幕府官僚としてのエリートコースを歩んだ。
晩年の「蜀山人」としての復活
寛政の改革が終息し、文化・文政期(19世紀初頭)に入って社会の緊張が和らぐと、彼は「蜀山人(しょくさんじん)」などの別号を用い、再び文壇へと復帰した。晩年の彼は、狂歌のみならず、随筆や狂詩、考証随筆など多岐にわたる分野で膨大な著作を残し、江戸を代表する知識人(大御所)としてその生涯を閉じた。四方赤良という名と彼の足跡は、政治の激変に翻弄されながらも、たくましく知的な遊び文化を守り抜いた江戸の文人精神を象徴している。