常磐津文字太夫 (ときわずもじたゆう)
1709年〜1781年
【概説】
江戸時代中期の浄瑠璃太夫であり、歌舞伎伴奏音楽の主要流派の一つである「常磐津節」の創始者。幕府の弾圧によって衰退した豊後節を改良し、江戸好みの洗練された語り口として再生させた人物。江戸歌舞伎の舞踊(所作事)に不可欠な音楽として流行を呼び、後世の音曲に多大な影響を与えた。
豊後節の禁絶から常磐津節の創始へ
初代常磐津文字太夫(宮古路文字太夫)は、江戸時代中期の18世紀前半に一世を風靡した浄瑠璃の流派「豊後節」の創始者・宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の門弟であった。当時、豊後節はその哀愁を帯びた扇情的な旋律で江戸の町人を熱狂させたが、心中を美化する作風が心中事件の多発を招いたとされ、風紀の乱れを警戒した江戸幕府(享保の改革期)によって1740年(元文5年)に演奏禁止処分を下された。師の没後、文字太夫は豊後節の過度な情緒性を抑え、江戸の武家や町人の好みに合う、力強くかつ品格のある語り口へと改良。1747年(延享4年)に「常磐津文字太夫」を名乗り、新たな流派である常磐津節を創始して再起を図った。
歌舞伎舞踊との結合と「江戸浄瑠璃」の確立
常磐津文字太夫の功績は、新興の常磐津節を歌舞伎の舞踊劇(所作事)の伴奏音楽として深く定着させた点にある。彼は江戸歌舞伎の女形スターであった二代目瀬川菊之丞らと提携し、役者の華麗な踊りを引き立てる劇的でテンポの良い音曲を提供した。この試みは大成功を収め、常磐津節は江戸歌舞伎における劇場音楽の主流へと成長を遂げた。文字太夫が確立した常磐津節は、のちにそこから派生する富本節や清元節とともに「豊後系浄瑠璃」と呼ばれ、上方起源の浄瑠璃とは異なる、洗練された「江戸浄瑠璃」の黄金期を築く基盤となった。