歌川広重 (うたがわひろしげ)
【概説】
江戸時代後期を代表する浮世絵師。葛飾北斎とともに名所絵(風景画)のジャンルを確立し、抒情的で郷愁を誘う画風で絶大な人気を博した。
代表作である『東海道五十三次』や『名所江戸百景』は、国内のみならず後の西洋美術におけるジャポニスムの形成にも多大な影響を与えている。
武家の出自から浮世絵師への転身
歌川広重は、寛政9年(1797年)に江戸の定火消(じょうびけし)同心の長男として生まれた。本名は安藤重右衛門であり、かつては「安藤広重」と称されることも多かったが、浮世絵師としては「歌川」の画号を用いるのが適切であるため、現在では「歌川広重」と表記される。若くして家督を継ぐが、絵への情熱から15歳で歌川豊広に入門した。初期は役者絵や美人画などを描いていたが、これといった独自の画風を確立するには至らず、徐々に葛飾北斎の『富嶽三十六景』の成功に触発される形で風景画(名所絵)の道へと進んでいった。
『東海道五十三次』の大ヒットと時代背景
天保4年(1833年)頃より保永堂から刊行された『東海道五十三次』は、広重の評価を決定づける歴史的な大ヒット作となった。この作品が爆発的な人気を博した背景には、化政文化期に成熟した庶民の旅行ブームがある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が広く読まれ、伊勢神宮への「お蔭参り」が流行するなど、当時の江戸の庶民にとって旅は最大の娯楽であり憧れであった。広重は宿場町の風景だけでなく、そこに生きる人々の息遣いや天候の変化、旅情を生き生きと描き出したことで、庶民の旅への渇望を見事に満たしたのである。
北斎との対比と「ヒロシゲブルー」の抒情性
広重の風景画は、同時代の巨匠・葛飾北斎としばしば対比される。北斎が幾何学的で奇抜な構図や力強い線描で対象を理知的に捉えたのに対し、広重の画風は極めて情緒的であった。彼は雨、雪、風、霧といった自然現象や四季の移ろいを繊細に表現し、見る者の郷愁を誘う「抒情的な風景画」を完成させた。また、当時輸入され始めた化学顔料であるベロ藍(プルシアンブルー)を効果的に用いた空や水辺の表現は高く評価され、その透明感あふれる青色は後に「ヒロシゲブルー」と称賛された。この美しい色彩と、日本の湿潤な気候を感じさせる木版画特有の「ぼかし」の技法は、広重の作品の最大の魅力である。
晩年の傑作『名所江戸百景』と西洋美術への影響
晩年には、江戸の風景を斬新な構図で切り取った『名所江戸百景』を制作した。手前に事物を極端に大きく描き、遠景との強烈な対比を生み出す「近像型構図」など、その奇抜でモダンな表現は浮世絵の到達点の一つとされる。広重の作品は、幕末から明治にかけて陶磁器の包み紙などを通じてヨーロッパへと渡り、19世紀後半の西洋美術に多大な衝撃を与えた。特にフィンセント・ファン・ゴッホは広重の作品に魅了され、『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油彩で模写している。印象派やポスト印象派の画家たちを中心としたジャポニスム(日本趣味)の流行において、広重の風景画は最も重要なインスピレーションの源泉となったのである。