日露和親条約
【概説】
1854年(安政元年)、江戸幕府とロシア帝国の間で締結された両国間最初の条約。ロシア使節プチャーチンとの交渉により、下田・箱館(函館)・長崎の3港の開港や、択捉島と得撫島の間を日露の国境とすることなどを定めた。日本の北方領土の範囲を法的に確定した条約として、現代の領土問題においても極めて重要な歴史的意義を持つ。
ロシアの極東進出とプチャーチンの来航
18世紀後半以降、極東地域への進出を図るロシア帝国は、ラクスマンやレザノフらを派遣して日本に幾度も通商を求めていたが、江戸幕府は鎖国政策を理由にこれを拒絶し続けていた。しかし、19世紀半ばに欧米列強のアジア進出が本格化すると状況は一変する。アメリカのペリーが浦賀に来航してからわずか約1ヶ月後の1853年(嘉永6年)7月、ロシアの全権使節プチャーチンが艦隊を率いて長崎に来航し、開国と国境の画定を求めた。
当時のロシアはヨーロッパにおいてクリミア戦争の最中であり、極東においてもイギリス・フランス艦隊との緊張状態にあった。プチャーチンは幕府に対して紳士的で粘り強い交渉を行い、幕府側も勘定奉行の川路聖謨(かわじたかあきら)や筒井政憲らが全権として応対した。交渉の途上、安政東海地震の津波によってロシアの乗艦ディアナ号が沈没する悲劇に見舞われたが、日本の船大工とロシアの水兵が協力して代用の洋式帆船(ヘダ号)を建造するなど、友好的な交流の側面も見られた。
開港と和親条約の締結
ディアナ号沈没後の1854年12月(西暦では1855年初頭)、伊豆の下田において日露和親条約(正式名称:日本国魯西亜国通好条約)が調印された。本条約により、幕府は日米和親条約で開港した下田・箱館(函館)に加え、新たに長崎の3港をロシアに対して開港し、薪水・食料の供給や難破船の救護を約束した。
また、ロシアに対してもアメリカ・イギリスと同等の権利を与える片務的な最恵国待遇を承認し、開港地におけるロシア領事の駐在や、ロシア人に対する領事裁判権(治外法権)も規定された。これにより、ロシアは日本において他の欧米列強と同等の地位を確保することに成功した。
北方における国境の画定とその意義
この条約の最大の特徴であり、同時代に結ばれた他国との和親条約には見られない独自の規定が、日露間の国境画定である。条約の第2条において、千島列島における国境を択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間と明確に定め、択捉島以南の南千島(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)を日本の領土、得撫島以北の北千島をロシアの領土とした。一方、樺太(サハリン)については明確な境界線を設けず、これまで通り日露両国人の混住の地(雑居地)とされた。
日露和親条約は、日本の歴史上初めて近代的な国際法に基づいて結ばれた国境条約である。ここで平和的に確定された「択捉島以南は日本の固有の領土である」という事実は、現代の日本政府がロシアに対して行っている北方領土返還要求の最も重要な歴史的・法的根拠となっている。そのため、この条約が調印された太陽暦の2月7日は、現在において「北方領土の日」に制定されている。