洪秀全 (こうしゅうぜん)
1814〜1864
【概説】
19世紀半ばの清朝において、大規模な反乱である「太平天国の乱」を指導した宗教家・革命家。キリスト教の影響を受けて宗教結社「拝上帝会」を組織し、満洲族の清朝を打倒して地上天国を築くことを目指した太平天国の創始者。
拝上帝会の結成と太平天国の建国
広東省出身の洪秀全は、官吏登用試験である科挙にたびたび落第する中で、キリスト教の布教パンフレットに触れて独自の宗教観を抱くに至った。自身を「天帝(ヤハウェ)の次男」であり「イエス・キリストの弟」であると確信した彼は、1840年代にキリスト教的色彩を帯びた宗教結社拝上帝会を組織した。当時、アヘン戦争後の社会混乱に苦しんでいた農民や鉱山労働者、客家(はっか)と呼ばれる差別的な境遇にあった人々を急速に組織化し、1851年に広西省金田村で挙兵(金田蜂起)した。国号を太平天国とし、自らは「天王」と称して清朝(満洲族)の打倒を掲げ、1853年には南京を占領して「天京」と改称して都に定めた。
日本(江戸幕末)への影響と対外危機の認識
洪秀全が引き起こした太平天国の乱は、長崎貿易や清国からの風説書、さらには上海に渡航した高杉晋作らを通じて、江戸時代末期の日本にいち早く伝わった。この未曾有の大反乱の情報は、ペリー来航による開国要求に揺れる日本社会に多大な衝撃を与えた。知識人の間では、キリスト教の邪教的側面(反乱を惹起する危険な思想)に対する警戒感が改めて強まるとともに、清朝が欧米列強と国内の反乱の双方によって弱体化していく様子が詳細に分析された。この情報は、日本が植民地化を避けるためには早急な軍事改革と国力増強が必要であるという「対外危機意識」を急速に高め、幕末の尊王攘夷運動や明治維新への動きを大きく加速させる契機となった。