孫文
【概説】
清朝の打倒と共和制国家の建設を目指し、「三民主義」を提唱して辛亥革命を指導した中国の革命家。東京で中国同盟会を結成するなど日本を主要な活動拠点とし、多くのアジア主義者や政治家から支援を受けた。近代日本と中国の関わりを理解する上で、極めて重要な役割を果たした人物である。
革命の原点と初期の活動
孫文は広東省の農村に生まれ、兄を頼ってハワイに渡り、その後香港で西洋医学を学んで医師となった。西洋の近代思想に触れる中で清朝の腐敗と弱体化に危機感を抱くようになり、1894年の日清戦争勃発を機にハワイで興中会を組織し、武力による清朝打倒を目指し始めた。翌1895年に広州での武装蜂起を企てるが事前に発覚して失敗し、清朝から追われる身となって日本や欧米へ亡命した。以後、彼は海外の華僑や留学生を中心に革命資金の調達と同志の獲得に奔走することになる。
日本への亡命と日本人志士との交友
孫文の革命運動において、明治期の日本は最大の拠点の一つであった。1895年に初めて来日して以降、彼は幾度も日本に滞在し、日本の政治家やアジア主義者と深い関わりを持った。特に大陸浪人の宮崎滔天は孫文の思想に深く共鳴し、自身の著書『三十三年之夢』を通じて日本の知識人に孫文の存在と革命の理念を広く紹介した。また、長崎出身の実業家である梅屋庄吉は莫大な私財を投じて孫文を資金面で援助し続け、政治家の犬養毅や右翼活動家の頭山満らも彼の庇護に動いた。欧米列強のアジア侵略に対抗するため、日中が提携してアジアの復興を目指すという当時の「初期アジア主義」の潮流は、孫文の活動と強く結びついていた。
東京での中国同盟会結成と「三民主義」
日露戦争(1904〜1905年)での日本の勝利は、立憲制や近代化のモデルとして中国の知識人や若者に大きな刺激を与え、日本へ渡る中国人留学生が急増した。こうした背景のもと、1905年に孫文は東京で興中会、華興会、光復会などの革命団体を統合し、中国同盟会を結成した。この結成大会には日本各地から数百名の留学生が参加し、東京は事実上、中国革命の策源地となった。孫文はこのとき、機関紙『民報』を発刊し、革命の基本理念として「民族の独立」「民権の伸張」「民生の安定」からなる三民主義を提唱した。この思想を学んだ留学生たちは帰国後に各地で反清運動を展開し、革命の機運は中国全土へと波及していった。
辛亥革命の成就と日本史における意義
1911年、武昌での蜂起を皮切りに辛亥革命が勃発すると、アメリカ滞在中だった孫文は帰国し、翌1912年に南京でアジア初の共和制国家である中華民国の成立を宣言して、初代臨時大総統に就任した。その後、政権を清朝の実力者である袁世凱に譲ったものの、袁の独裁化に伴い第二革命、第三革命を起こし、再び日本への亡命を余儀なくされるなど波乱の生涯を送った。日本史の文脈において、孫文は単なる隣国の革命家にとどまらず、近代日本の対中国政策の変遷や、当時の日本人が抱いていた「アジア連帯」の理想と現実の矛盾(のちの日本の対華21カ条の要求などによる関係悪化)を浮き彫りにする存在として、日中関係史を考察する上で欠かせない重要人物である。