朝貢 (ちょうこう)
【概説】
周辺諸国の王が中国の皇帝に貢物を献上し、君臣関係を結んで服属の意思を示す外交形態。日本では主に弥生時代から古墳時代にかけて盛んに行われ、列島内の小国の王たちは中国王朝の権威や先進的な文物を背景に、国内での政治的優位性を確立しようとした。
中華思想と朝貢・冊封体制
朝貢とは、古代東アジアにおいて強大な勢力を誇った中国王朝を中心とする国際秩序、すなわち華夷秩序(かいちつじょ)に基づく外交形態である。中国の皇帝は世界の中心であり、周辺の異民族(夷狄)はその徳を慕って貢物を献上してくるという建前をとった。これに対し、皇帝は彼らの君長としての地位を認め、王などの称号や印綬を授ける冊封(さくほう)を行うことが一般的であった。
また、朝貢は単なる政治的な服属儀礼にとどまらず、経済的な側面も強く持ち合わせていた。朝貢国からの貢物に対して、中国皇帝は自らの恩恵と大国の威信を示すため、その数倍の価値がある莫大な返礼品(回賜)を与えた。これを朝貢貿易と呼び、周辺諸国にとっては先進的な文物や富を獲得する絶好の機会であった。
弥生時代における朝貢の背景と意義
日本列島において朝貢が始まったのは、社会の階層化が進み、各地に小国(クニ)が分立した弥生時代である。当時、日本列島は「百余国」に分かれて激しい争いを繰り広げていた。各国の王や有力者たちは、他の小国に対する優位性を確固たるものにするため、東アジアの超大国である中国王朝の後ろ盾を必要としたのである。
彼らは危険な海路を越えて使者を派遣し、朝貢を行うことで、中国皇帝から正統な支配者としての承認を得ようとした。また、返礼品としてもたらされる銅鏡や鉄器、絹織物などは、当時の日本国内では生産できない極めて貴重な威信財であった。王たちはこれを配下の者や同盟国に分配することで、自らの権力とカリスマ性を高め、地域の統制を図ったのである。
歴史書に記録された日本の朝貢
日本の朝貢に関する最古の記録は、中国の歴史書『漢書(かんじょ)』地理志に見られる。それによれば、紀元前1世紀頃(前漢の時代)、倭人は百余りの国に分かれ、朝鮮半島に置かれた楽浪郡を通じて定期的に使者を送り、朝貢していたという。
1世紀に入ると、さらに具体的な記録が登場する。『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝によれば、建武中元2年(57年)に奴国(なこく)の王が後漢の光武帝に朝貢し、印綬を授けられた。これが江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印である。続いて107年には、倭国王の帥升(すいしょう)らが後漢の安帝に生口(奴隷)160人を献上している。
そして3世紀、『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)には、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の朝貢が詳細に記されている。景初3年(239年)、卑弥呼は魏に遣使し、明帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬、そして銅鏡百枚などを下賜された。卑弥呼はこの権威を利用して、敵対する狗奴国に対抗し、列島内での王権を安定させようと図った。
その後の展開と独自外交への移行
弥生時代から続く朝貢の姿勢は、古墳時代における「倭の五王」の南朝(宋など)への遣使に引き継がれた。彼らもまた、朝鮮半島における外交的・軍事的優位を求めて中国皇帝からの称号(安東大将軍など)を欲求した。
しかし、国内の統一が進みヤマト王権の基盤が強固になると、中国王朝の権威を国内統治に利用する必要性は次第に薄れていった。飛鳥時代に入り、推古天皇の時代に派遣された遣隋使では、「日出づる処の天子」という国書を持参し、中国と対等な外交関係を模索するようになる。続く遣唐使の時代には、先進文化の吸収という目的は維持しつつも、日本の天皇が中国の冊封を受けることはなくなり、日本独自の国家意識が形成されていくこととなった。