徳川家定 (とくがわいえさだ)
【概説】
江戸幕府の第13代将軍。ペリー来航による対外的危機のただ中に就任したが、病弱で将軍としての主導権を発揮できなかった。実子がいなかったため、その次期後継者を巡って幕閣や有力大名を巻き込む激しい「将軍継嗣問題」を引き起こした。
内憂外患の緊迫期における将軍就任と人物像
徳川家定は12代将軍・徳川家慶の四男として生まれた。兄たちがことごとく早世したため将軍継嗣となり、嘉永6年(1853年)のペリー来航の直後、父・家慶の急死に伴って第13代将軍に就任した。
しかし、家定は幼少期から病弱であり、人前に出ることを極端に嫌うなど、将軍として国難に立ち向かうリーダーシップを発揮できる状態にはなかったとされる。一説には脳性麻痺を患っていたとも伝えられており、大奥に引きこもって自ら煮豆やカステラを作ることを好んだことから「芋公方」などと揶揄されることもあった。このような家定の資質ゆえに、幕政の実権は老中首座の阿部正弘や、後の大老・井伊直弼ら幕臣たちに完全に握られることとなった。
幕末の政局を二分した「将軍継嗣問題」
家定は病弱で実子を得る見込みが薄かったため、その就任直後から次期将軍を誰にするかという将軍継嗣問題が浮上した。この問題は単なる後継者争いにとどまらず、緊迫する対外危機への対応策や、幕府権力のあり方を巡る政治闘争へと発展し、国論を二分する事態となった。
政局は、英明な一橋家当主・一橋慶喜(後の15代将軍)を推す「一橋派」と、家定との血縁の近さを重視して紀州藩主・徳川慶福(後の14代将軍・家茂)を推す「南紀派」に分裂した。一橋派には、前水戸藩主の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、越前藩主の松平慶永などの開明的な親藩・外様大名が名を連ね、一橋慶喜を擁立することで幕政改革を断行しようとした。これに対し、南紀派は譜代大名が中心であり、伝統的な譜代大名主導の幕府独裁を維持しようとした。
井伊直弼の台頭と家定の最期
安政5年(1858年)、南紀派の首領である井伊直弼が大老に就任したことで、後継者争いは決着へ向かう。井伊は大奥の支持も背景に家定の意向を取り付ける形で、次期将軍を徳川慶福に決定した。さらに井伊は、朝廷の勅許(許し)を得ないまま日米修好通商条約に調印し、開国を断行した。
家定はこの激動の政局の中、安政5年(1858年)7月に35歳で急逝した。その死は条約調印や将軍継嗣の決定と重なったため、一橋派による暗殺説も囁かれたが、実際には脚気(かっけ)などの病死であったと考えられている。家定の死後、井伊直弼の強権政治に反発した一橋派や尊王攘夷派の志士たちは、徹底的な弾圧(安政の大獄)を受けることとなり、幕末の動乱はさらなる破局へと突き進むこととなった。