奴国

重要度
★★★

奴国 (なこく)

紀元前1世紀頃〜3世紀頃

【概説】
弥生時代中期から後期にかけて、現在の福岡県福岡市や春日市を中心とする地域に存在したとされる小国。
紀元1世紀に後漢へ使者を派遣して金印を授かるなど、早くから中国王朝と独自の外交交渉を行っていた。
3世紀の文献にも邪馬台国連合を構成する有力な国として記されており、考古学的成果と文献史料が結びつく日本古代史の最重要テーマの一つである。

『後漢書』東夷伝の記述と金印の授与

奴国が中国の歴史書に初めて明記されるのは、中国の正史である『後漢書』東夷伝においてである。同書には、建武中元二年(紀元57年)に「倭の奴国」が使者を送り、後漢の初代皇帝である光武帝から印綬を授与されたという記述がある。この時の使者は自ら「大夫(たいふ)」と称しており、奴国がすでに明確な身分制度や外交組織を整えた政治的実体であったことを示している。

この記述を裏付ける大発見となったのが、江戸時代後期の天明4年(1784年)、筑前国(現在の福岡市東区)の志賀島で農民によって発見された純金製の印である。この金印には「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれており、『後漢書』の記述と見事に一致した。奴国の王が後漢に朝貢した最大の理由は、強大な中国王朝の権威を背景にすることで、近隣の小国群との激しい抗争を有利に進めるためであったと考えられている。

『魏志』倭人伝にみえる3世紀の奴国

3世紀になると、奴国は中国の歴史書『魏志』倭人伝(『三国志』魏書東夷伝倭人の条)に再び登場する。この時代の奴国は、かつてのように中国王朝へ直接遣使する独立した外交権は失っており、女王・卑弥呼が統治する邪馬台国を中心とした連合体制(倭国)に組み込まれていた。

しかし、倭国を構成する国々の中でその規模は特筆すべきものであった。『魏志』倭人伝には、奴国には「戸数二万余戸」があると記されている。これは同じく有力な国であった伊都国(一千余戸)などを大きく凌駕しており、当時の日本列島において最大級の人口を抱えていたことがわかる。また、王はいないものの「兕馬觚(じまこ)」や「卑奴母離(ひなもり)」といった長官・副官の役職が存在し、連合内においても独自の強固な統治機構を維持していたとされる。

考古学が明かす奴国の実態

文献史学のみならず、考古学の観点からも奴国の実態は詳細に解明されつつある。奴国の中心地は、現在の福岡平野を流れる那珂川や御笠川の流域であったと推定されており、特に福岡県春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)や福岡市の比恵・那珂遺跡群などが奴国の中枢を担う重要遺跡として著名である。

これらの遺跡からは、弥生時代特有の埋葬法である甕棺墓(かめかんぼ)が多数発掘されており、その中には前漢製の銅鏡や、多数の銅剣、銅矛、銅戈、ガラス勾玉などが副葬された「王墓」が含まれていた。さらに、一帯からは青銅器の鋳型や送風管などの鋳造関連遺物も大量に出土しており、奴国が日本列島有数の青銅器生産拠点であったことが判明している。奴国は、朝鮮半島を通じた先進技術の導入窓口であり、強力な経済力と軍事力を持つハイテク国家であったと言える。

奴国の歴史的意義と国家形成への軌跡

奴国の歴史は、弥生時代の日本列島が「ムラ」から「クニ」へと成長し、やがて邪馬台国のような広域の「連合国家」へと統合されていく過程を鮮明に映し出している。紀元1世紀には奴国自身が中国へ遣使するほどの自立した覇権勢力であったが、2世紀後半の「倭国大乱」と呼ばれる争乱期を経て、3世紀には邪馬台国の傘下へと再編されていった。

近隣の伊都国(現在の福岡県糸島市周辺)には、後に邪馬台国から派遣された「一大率」が置かれ、検察や外交の窓口となったが、農業生産力と人口規模においては奴国が圧倒していた。奴国は、文献史料の絶対年代(57年)と、豊富な考古学的遺物がリンクする極めて稀有な存在であり、東アジア世界の中での日本の国家形成史を解き明かすための鍵となる最重要の小国なのである。

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Q. 望楼や二重の環濠など厳重な防御施設を備え、「クニ」の中心であったと考えられる佐賀県にある弥生時代最大級の遺跡はどこか?
Q. 横穴式石室の特徴を活かし、先に葬られた人の後に、別の血縁者が亡くなった際に同じ石室へ追加して葬ることを何というか?
Q. 倭王「済」に比定され、市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)などをもうけたとされる5世紀の大王は誰か?