松平容保 (まつだいらかたもり)
【概説】
幕末の会津藩第9代藩主。文久の改革によって新設された京都守護職に就任し、新選組を配下にして京都の治安維持や尊皇攘夷派の取り締まりにあたった人物。戊辰戦争においては旧幕府側の中心的勢力として新政府軍と激しく抗戦した(会津戦争)。
高須藩からの養子入りと「会津家訓」
美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれ、会津松平家の第8代藩主・松平容敬の養子となって家督を継いだ。尾張徳川家の連枝である高須家からは、容保の他に徳川慶勝(尾張藩主)、一橋茂栄(一橋家当主)、松平定敬(桑名藩主)が他家に養子入りしており、彼らは「高須四兄弟」と呼ばれて幕末の政局に深く関与することとなる。会津藩には、藩祖・保科正之が定めた会津家訓十五箇条があり、その第一条に「将軍家へ忠勤を励むこと」と記されていた。この家訓は容保の思想と行動を決定づける強固な規範となり、後の悲劇的な運命へと繋がっていく。
京都守護職への就任と治安維持
1862(文久2)年、島津久光の主導による幕政改革(文久の改革)において、京都の治安維持と朝廷との交渉を担う新職として京都守護職が設置された。幕府からこの職を打診された容保は、藩の財政的負担や泥沼の政争に巻き込まれることを危惧する家臣たちの猛反対を受けた。しかし、松平慶永(春嶽)らから家訓を引き合いに出されて説得されると、君臣ともに「会津藩は京都を死に装束とする」との悲壮な覚悟を決め、就任を受諾した。
入京後の容保は、当初は尊王攘夷派に対しても言論を重んじる融和的な姿勢をとったが、暗殺や天誅が横行する京都の惨状を前に強硬路線へと転換した。浪士組から派生した新選組や、幕臣からなる京都見廻組を配下におさめ、過激派公卿や長州藩士らの弾圧に乗り出した。
孝明天皇の信任と一会桑政権
1863(文久3)年の八月十八日の政変では、薩摩藩と結んで長州藩や急進的尊王攘夷派の公卿(七卿)を京都から追放した。翌1864(元治元)年には、新選組による池田屋事件を経て、報復のために上京した長州藩兵を禁門の変で撃退するなど、幕府側の武力的支柱として活躍した。こうした容保の働きに対し、極端な攘夷を嫌い公武合体を望んでいた孝明天皇は厚い信任を寄せ、容保に対して直接、感謝と信頼の意を記した御宸翰(ごしんかん)と御製(和歌)を下賜した。
その後、容保は将軍後見職の一橋慶喜、京都所司代となった実弟の桑名藩主・松平定敬とともに京都政局を主導するようになり、この強固な連携は「一会桑政権」と呼ばれた。
大政奉還と会津戦争
1866(慶応2)年末に最大の理解者であった孝明天皇が崩御すると、容保の立場は徐々に悪化していく。1867(慶応3)年の大政奉還とそれに続く王政復古の大号令によって京都守護職を免ぜられ、新政府から排除された。1868(慶応4)年に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた容保は徳川慶喜とともに軍艦で江戸へ逃れた。
その後、慶喜が新政府に恭順姿勢を示す一方で、容保は会津へと戻り、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に対する徹底抗戦を選択した(会津戦争)。しかし、圧倒的な武力を持つ新政府軍の前に白虎隊の悲劇などの多大な犠牲を払い、約1ヶ月の籠城戦の末に鶴ヶ城を開城して降伏した。維新後は逆賊として一時蟄居を命じられたものの後に許され、晩年は日光東照宮の宮司などを務めた。容保は孝明天皇からの御宸翰を小さな竹筒に入れ、生涯肌身離さず持ち歩いたと伝えられている。