生麦事件

1862年、江戸から帰る島津久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が殺傷し、のちの薩英戦争の原因となった事件は何か?
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★★★

【参考リンク】
生麦事件(Wikipedia)

生麦事件

1862年

【概説】
1862年(文久2年)、江戸近郊の武蔵国生麦村において、薩摩藩の実質的指導者である島津久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が殺傷した国際事件。この事件はイギリスの激しい反発を招いて翌年の薩英戦争の直接的な原因となるとともに、幕末の政治史を大きく転換させる契機となった。

事件の背景と勃発

1862年(文久2年)、薩摩藩主の父であり藩の最高権力者であった島津久光は、幕政改革(文久の改革)を推進するために勅使を擁して江戸へ下向した。その目的を達した後の帰途である旧暦8月21日(太陽暦9月14日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)の東海道において事件は発生した。

当時、横浜居留地周辺は外国人遊歩区域として条約で認められており、上海から観光目的で訪れていたイギリス人商人リチャードソンら男女4名が乗馬を楽しんでいた。彼らが久光の行列と遭遇した際、日本の慣習を知らない(あるいは軽視した)彼らは下馬せず、行列を乱す形で進み続けた。当時の武家社会において、大名行列を横切る行為(供回りに対する無礼)は「無礼討ち(切捨御免)」の対象となる重大な禁忌であった。制止を振り切って久光の乗る駕籠に接近したリチャードソンに対し、薩摩藩士の奈良原喜左衛門らが斬りつけ、リチャードソンは死亡、他の男性2名も重傷を負って横浜居留地へと逃げ帰った。

外交問題への発展と幕府の苦境

白昼堂々とイギリス臣民が殺傷されたこの事件は、横浜の外国人社会に多大な衝撃を与え、一部の外国人は自国艦隊による報復攻撃を強硬に主張した。イギリスの代理公使ニールは冷静に対応しつつも、江戸幕府に対して公式な謝罪と10万ポンドの莫大な賠償金を要求し、さらに当事者である薩摩藩に対しても犯人の処罰と2万5千ポンドの賠償金を求めた。

当時の幕府は、国内で高まりつつあった尊王攘夷運動の対応に苦慮していた。朝廷からは攘夷の決行を迫られる一方で、国際法に基づく諸外国からの強硬な要求を無視することはできず、まさに板挟みの状態であった。最終的に幕府はイギリスの軍事力による威嚇に屈し、1863年(文久3年)に10万ポンドの賠償金を支払った。しかし、薩摩藩側は「浪人が勝手に行ったことであり、藩は無関係である」と主張し、イギリスの要求を頑なに拒絶し続けた。

薩英戦争の勃発と歴史的意義

薩摩藩の態度に業を煮やしたイギリスは、1863年(文久3年)7月、直接交渉を行うためにニールを乗せた軍艦7隻の艦隊を鹿児島湾(錦江湾)に派遣した。しかし交渉は決裂し、イギリス艦隊が薩摩藩の船舶を拿捕したことをきっかけに両者は武力衝突へと発展した(薩英戦争)。

この戦闘で薩摩藩は鹿児島城下の大半を焼失するなどの甚大な被害を受けたが、一方でイギリス艦隊側にも艦長が戦死するなどの少なくない損害を与えた。この戦争を通じて、薩摩藩は西洋近代兵器の圧倒的な威力を身をもって体験し、武力による「攘夷」が現実的に不可能であることを悟った。同時に、イギリス側も薩摩藩の軍事的実力と勇猛さを高く評価するようになった。結果として、両者は講和後に急激に接近し、イギリスは薩摩藩への武器援助などを通じて友好的な関係を築いていく。生麦事件は単なる偶発的な殺傷事件にとどまらず、薩摩藩が強硬な攘夷から開国・倒幕へと路線を転換し、近代日本へと向かう歴史の歯車を大きく回す決定的な転換点となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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