活歴物(活歴劇) (かつれきもの / かつれきげき)
【概説】
明治時代初期に九代目市川團十郎らが推進した、史実に基づく厳密な時代考証を取り入れた歌舞伎の演目のこと。従来の荒唐無稽な筋書きや様式化された演出を排し、学術的な正確さを追求した。近代化の波の中で歌舞伎の地位向上を目指した運動であったが、娯楽性に欠けたため大衆的な支持は広がらなかった。
文明開化と「演劇改良運動」の勃興
明治維新を迎えた日本は、急速な西洋化と近代化(文明開化)を推進していた。その中で、江戸時代から庶民の娯楽として親しまれてきた歌舞伎は、「俗悪で野蛮な見世物」として批判の対象となった。日本の近代化を国際社会に示すためにも、西洋のオペラや演劇に匹敵する、知識階級や外国賓客が鑑賞するに足る「高尚な演劇」へと昇華させることが求められた。こうした背景から、政府関係者や知識人らを中心に演劇改良運動が展開されることとなった。
この運動の潮流に呼応したのが、当時の歌舞伎界の第一人者であった九代目市川團十郎である。團十郎は、歌舞伎の社会的地位を高めるためには、これまでの荒唐無稽で不合理なストーリーを改め、道徳的かつ教育的な内容にする必要があると考えた。こうして生まれたのが、歴史的事実を忠実に再現しようとする新しい歌舞伎、すなわち「活歴物」であった。
学術的考証の追求と「活歴」の命名
團十郎は、歴史学者の依田学海や榊原芳野らの協力を仰ぎ、徹底した時代考証を行った。劇中の衣装、甲冑、調度品から、登場人物の所作、言葉遣いに至るまで、当時の文献に基づいて再現することに努めた。従来の時代物歌舞伎で行われていた、派手な立ち回りや、時代考証をあえて無視した自由な演出(ケレン)は排除された。
しかし、この徹底した写実主義(リアリズム)の追求は、歌舞伎が本来持っていた大衆娯楽としての楽しさや様式美を奪う結果となった。動きが少なく、教育的な説明が多い退屈な舞台に対し、ジャーナリストで戯作者の仮名垣魯文は「活きた歴史教科書のようだ」と揶揄を込めて「活歴(活きた歴史)」と名付けた。これが「活歴物」という言葉の語源である。観客は過度な写実主義に反発し、活歴物は興行としては失敗に終わることが多かった。
近代演劇史における役割と後世への影響
活歴物自体は一時的な流行にとどまり、大衆の支持を得ることはできなかったが、日本近代演劇史におけるその意義は極めて大きい。活歴物を通じて、歌舞伎は「歴史教育の場」としての公的な役割をアピールすることができ、これが歌舞伎の地位向上に大きく貢献した。その最大の成果が、明治20年(1887年)に行われた天覧歌舞伎である。明治天皇が歌舞伎を鑑賞したことで、歌舞伎は「卑しい見世物」から「日本を代表する伝統芸能・国劇」としての社会的承認を得ることに成功した。
さらに、活歴物の失敗は、演劇における「歴史の真実」と「劇的な虚構」の調和という大きな課題を後世に残した。大正時代以降、史実を踏まえつつも登場人物の心理描写やドラマ性を重視した新歌舞伎(坪内逍遥や真山青果らの作品)が誕生する上で、活歴物での試行錯誤は不可欠なステップであったと言える。