市川団十郎(九代目)
【概説】
明治時代を代表する歌舞伎役者で、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次とともに「団菊左」と呼ばれた名優。文明開化の風潮の中で演劇改良運動に賛同し、史実に忠実な「活歴物」を創始した。天覧歌舞伎を実現させるなど、歌舞伎の高尚化と俳優の社会的地位向上に多大な貢献を果たした。
幕末から明治へ:九代目襲名と「団菊左」の時代
七代目市川団十郎の五男として生まれ、複雑な養子縁組などを経て、1874年(明治7年)に九代目市川団十郎を襲名した。彼が本格的に活躍した明治時代初期は、西洋の文化や制度が急激に流入する文明開化の只中にあった。この激動の時代にあって、団十郎は五代目尾上菊五郎、初代市川左団次とともに明治歌舞伎の黄金時代を築き上げ、彼ら三人はその名から「団菊左(だんぎくさ)」と称された。菊五郎が江戸の情緒を残す世話物を得意とし、左団次が新しい風俗を取り入れた散切物(ざんぎりもの)で人気を博したのに対し、団十郎は歴史劇である時代物に重きを置き、独自の路線を歩んでいくこととなる。
演劇改良運動と「活歴物」の創始
当時の明治政府は、欧米列強に肩を並べる近代国家を構築する一環として、文化芸術の面でも西洋の演劇に劣らない「高尚な」演劇を求めていた。団十郎は、外務卿であった井上馨ら政府高官や末松謙澄などの知識人が提唱した演劇改良運動に強く賛同した。彼は、従来の歌舞伎が持っていた荒唐無稽な筋書きや誇張された演出を廃し、徹底した時代考証に基づいた史実に忠実な演劇を目指した。こうして彼が創始したのが「活歴物(かつれきもの)」と呼ばれる新史劇である。
装束や小道具、有職故実に至るまでリアリズムを追求した活歴物は、従来の娯楽性を求める一般大衆からは「理屈っぽくて面白みがない」と敬遠されることもあった。しかし、知識人層からは高く評価され、歌舞伎の近代化・合理化に向けた重要な試金石となった。
天覧歌舞伎の実現と社会的地位の向上
団十郎による歌舞伎高尚化への最大の功績の一つが、1887年(明治20年)に実現した天覧歌舞伎である。井上馨の私邸に明治天皇と昭憲皇太后を迎え、団十郎、菊五郎、左団次らが御前で芝居を披露した。江戸時代を通じて、歌舞伎役者は身分制度の最下層に置かれ、「河原者」「河原乞食」などと蔑まれる存在であった。しかし、国家元首である天皇の御覧に供されたことは、歌舞伎が日本を代表する伝統芸術として国家に公認されたことを意味した。この歴史的出来事により、歌舞伎という演劇および俳優の社会的地位は飛躍的に向上したのである。
日本演劇史における歴史的意義
晩年の団十郎は、活歴物における極端な写実主義からやや軌道修正を図り、歌舞伎本来の荒事(あらごと)などの様式美と、近代的な深い心理描写を融合させた新しい演技様式を確立していった。内面的な感情を表現する彼の高度な芸風は「腹芸」と呼ばれ、近代歌舞伎の演技の基礎となった。
1903年(明治36年)に彼が、同年には五代目菊五郎も相次いでこの世を去り、「団菊左」の時代は幕を閉じた。しかし、九代目市川団十郎が情熱を注いだ演劇改良と地位向上の軌跡は、歌舞伎を単なる大衆娯楽から日本が世界に誇る古典演劇へと昇華させる決定的な転換点となり、その功績と精神は現代の歌舞伎界にも脈々と受け継がれている。