イギリス公使館焼討ち事件
【概説】
1862(文久2)年12月、長州藩の過激派志士らが江戸品川の御殿山に建設中であったイギリス公使館を襲撃・放火した事件。高杉晋作や久坂玄瑞らが主導した、幕末期における尊王攘夷運動の激化を象徴する武力抗議行動の一つである。
幕末の尊王攘夷運動と御殿山公使館建設
日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約締結以降、日本国内では不平等条約に対する反発と外夷排除を唱える尊王攘夷思想が急速に台頭した。特に孝明天皇を擁する京都の朝廷が攘夷を強く求めたため、江戸幕府は朝廷と融和を図る「公武合体」を進めつつ、形式的な攘夷姿勢を示さざるを得なくなった。
このような政治的緊張の中、幕府は江戸市中に散在していた外国公使館を統合・隔離するため、品川の御殿山(現在の東京都品川区北品川)に新たな外国公使館街を建設することを決定した。しかし、御殿山は桜の名所として江戸庶民に親しまれた土地であり、かつ江戸湾の防備拠点でもある品川台場に近い要衝であった。ここに巨大な外国公使館を建設することは、攘夷派の志士たちにとって「神聖な国土の汚涜」であり、幕府の屈辱的な弱腰外交の象徴と映ったのである。
高杉晋作と「御楯組」による襲撃の実行
公使館建設に対する強い憤りを抱いた長州藩の尊王攘夷派は、武力による実力行使を画策した。主導したのは、のちに藩の軍制改革を担うことになる高杉晋作や、松下村塾以来の同志である久坂玄瑞らであった。彼らは血気盛んな同志たちを集めて御楯組(みたてぐみ)と称する結社を結成し、攘夷の決意を示すための象徴的行動として公使館の焼き討ちを計画した。
1862(文久2)年12月12日の深夜、高杉や久坂、のちに明治政府の重鎮となる志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)ら十数人の長州藩士は、御殿山の建設現場に潜入した。彼らはのこぎりで門を切り開き、火薬や油を用いて建設中のイギリス公使館に火を放った。建物は夜空を焦がして全焼した。幸いにも、建物はまだ未完成で公使館員は入居していなかったため、人的被害は免れたが、事件は幕府および在日外国人に大きな衝撃を与えた。
事件の歴史的影響と長州藩の急進化
この事件は、同年に武蔵国で発生した生麦事件などとともに、過激化する攘夷運動の動向を外国勢力に見せつける結果となった。事件後、イギリスは幕府に対して厳重な抗議を行い、賠償金を要求した。幕府は長州藩の関与を疑いつつも犯人を特定できず、最終的に巨額の賠償金を支払うことで外交的決着を図った。
一方、犯行に及んだ高杉らは、藩の保護(あるいは黙認)もあって処罰を免れた。この成功体験は長州藩内における尊王攘夷派の主導権を決定づけ、藩論を「破約攘夷」へと急進化させる原動力となった。翌1863(文久3)年の「五月十日の攘夷決行」(下関海峡での外国船砲撃)へと突き進む長州藩の過激な行動は、この御殿山での焼き討ち事件を起点として地続きにつながっているのである。