東禅寺事件 (とうぜんじじけん)
【概説】
幕末の文久年間に、江戸・高輪の東禅寺に置かれていたイギリス仮公使館が、攘夷派の浪士や藩士によって襲撃された殺傷事件。1861年(文久元年)の第一次、1862年(文久2年)の第二次の二度にわたって発生した。開国後の尊王攘夷思想の高揚を象徴する事件であり、江戸幕府の警備能力の限界を国内外に露呈させる結果となった。
第一次東禅寺事件(1861年)――水戸浪士による襲撃と背景
1858年の日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約の締結以降、日本国内では外国人の排斥を叫ぶ尊王攘夷運動が急速に高まっていた。こうした中、イギリス公使オールコックは、日本の実情を視察し幕府への圧力を強める目的で、長崎から江戸までの陸路旅行を強行した。この行為は国内の攘夷派を激しく刺激することとなる。
1861年(文久元年)5月28日、東禅寺に帰館したオールコックらを狙い、有賀半弥ら水戸藩脱藩浪士ら14名が東禅寺の仮公使館に乱入した。襲撃側と、警備にあたっていた幕府兵や西条藩士らとの間で激しい戦闘が行われ、イギリス書記官のオルファントや長崎領事のモリソンらが負傷した。この第一次事件は、生祠(生きている人を祀る祠)を汚されたという憤りや、外国人の不法な国内侵入に対する攘夷派の直接行動の現れであった。
第二次東禅寺事件(1862年)――警備藩士による単独テロ
第一次事件の後、東禅寺の警備は強化され、周辺の諸藩が輪番で警備を担当していた。しかし、翌1862年(文久2年)5月29日、再び東禅寺において襲撃事件が発生する。これが第二次東禅寺事件である。
襲撃を実行したのは、警備を担当していた松本藩士の伊藤軍兵衛であった。伊藤は、外国人を警護するために自藩の兵力が割かれ、国費が浪費される現状に憤慨し、単独で公使館に侵入した。この襲撃により、イギリス側の警備兵(水兵)2名が殺害された。伊藤は事件後に自刃した。本来であれば外国人を保護すべき立場にある警備藩士自らが襲撃に及んだことは、イギリス側に強い衝撃と不信感を与えることとなった。
歴史的意義――対外緊張の緩和失敗と軍事介入の伏線
二度にわたる東禅寺事件は、幕府が国際条約に基づいて約束したはずの「外国人の安全保障」を履行できないことを国内外に証明する形となった。イギリス側は幕府の治安維持能力を不信視し、自衛のために横浜への軍隊駐留を要求するなど、対日圧力を強める契機となった。
また、この事件はのちの生麦事件(1862年)や薩英戦争(1863年)へと至る、一連の対外テロ・衝突事件の先駆的な事例であった。幕府はイギリスに対して巨額の賠償金を支払うことを余儀なくされ、その政治的権威はさらに失墜し、幕末の政局は一層混迷の度を深めていくこととなった。