生野の変 (いくののへん)
【概説】
幕末の1863(文久3)年10月、福岡藩出身の平野国臣や公卿の沢宣嘉らが但馬国(現・兵庫県朝来市)で起こした尊王攘夷派の挙兵事件。八月十八日の政変によって京都から追放された尊攘派の勢力挽回を狙い、幕府直轄の生野代官所を占拠した。しかし、周辺諸藩による迅速な包囲と農民の離反により、わずか数日で壊滅に追い込まれた。
「八月十八日の政変」と尊王攘夷派の焦燥
1863(文久3)年、幕末の政局は激しく動揺していた。同年8月18日、公武合体派の薩摩藩・会津藩らが京都でクーデター(八月十八日の政変)を断行し、それまで朝廷の主導権を握っていた長州藩勢力や急進的な尊王攘夷派の公卿(七卿落ち)を排除した。これにより、尊攘派は一転して政治的な拠点を失い、大打撃を受けることとなった。
この政変の直前、大和国(奈良県)では吉村虎太郎らによる天誅組の変が勃発していたが、京都での政変によって後ろ盾を失い、孤立無援のまま幕府軍に鎮圧された。こうした焦燥感の中で、福岡藩出身の脱藩志士・平野国臣らは、天誅組に呼応して失墜した尊攘派の勢力を盛り返すべく、但馬国での新たな挙兵計画を急いだ。
生野代官所襲撃と数日での崩壊
平野国臣らは、幕府の直轄領(天領)であり、鉱山資源(生野銀山)を擁する財政的拠点でもあった但馬国生野に目をつけた。1863年10月12日、平野らは長州に逃れていた七卿の一人である公卿・沢宣嘉を首領(総帥)に迎え、急進的な志士たちを集めて生野代官所を占拠した。
志士たちは「攘夷」を唱え、さらに「年貢半減」や「農民救済」を提示して周辺農民に呼びかけ、一時は約2000人規模の武装集団を組織した。しかし、近隣の出石藩や姫路藩などの追討軍がただちに動き出すと、この情報に恐れをなした総帥の沢宣嘉が夜間に無断脱走するという事態が生じた。指導部を失った農民たちは志士たちに騙されたと怒り、逆に一揆を起こして志士たちを襲撃・告発する立場に回った。この結果、挙兵はわずか3日足らずで瓦解し、平野国臣らは捕縛されて京都の六角獄舎へ投獄され、翌年の禁門の変に際して処刑された。
挫折の歴史的意義と倒幕運動への教訓
生野の変は、天誅組の変と並んで急進的な尊攘派による「草莽(そうもう)の蜂起」の代表例である。この事件の失敗は、志士たちが掲げたスローガンが当時の知識層や武士のものであり、実際の民衆(農民)にとっては必ずしも主体的に共有される思想ではなかったという、志士と民衆との乖離を白日の下に晒すこととなった。
しかし、この手痛い挫折は、その後の倒幕運動における貴重な教訓となった。感情的・無計画な急進的蜂起の限界を思い知らされた志士たちは、以後、藩の公権力を背景とした組織的な軍事力(長州藩の奇兵隊など)の編成や、より緻密な軍事・政治戦略の構築へと路線を修正していくこととなった。生野の変は、過激な攘夷運動から実質的な「倒幕・明治維新」へと至る過渡期の画期となった事件といえる。