斎藤道三 (さいとうどうさん)
【概説】
戦国時代の美濃国(現在の岐阜県)を支配した代表的な戦国大名。美濃守護・土岐氏を追放して国盗りを成し遂げ、「美濃の蝮(まむし)」の異名を取った下剋上の体現者。織田信長の義父にあたり、尾張の織田家と結んで美濃の支配を固めたが、最後は嫡男の斎藤義龍と対立して敗死した。
「二代の国盗り」へと塗り替えられた出自
かつての斎藤道三は、京都の妙覚寺の僧侶から還俗して油売りとなり、美濃に下って守護代の長井氏、さらには守護の土岐頼芸を追放して一代で戦国大名にのし上がった「下剋上」の典型とされてきた。しかし近年の歴史研究、特に1960年代以降に発見された『六角承禎条書』などの史料により、この「国盗り」は道三一代のものではなく、父の新左衛門尉(長井新左衛門尉)と道三(名乗りの変遷は松波庄五郎、長井規秀、斎藤利政など)の親子二代にわたる事業であったことが定説となっている。これにより道三自身の「油売りからの立身出世」という劇的なストーリーは修正を迫られたが、美濃の権力を簒奪していく狡猾かつ大胆な政治手腕の評価は依然として高く、下剋上の時代を象徴する人物であることに変わりはない。
織田信長との同盟と「正徳寺の会見」
道三は美濃を掌中に収めたものの、国内外に多くの敵を抱えていた。特に南方の尾張国(愛知県)を支配する織田信秀(信長の父)とは激しい抗争を繰り広げた。そこで道三は東方の同盟国との調停も兼ね、娘の帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせることで、織田家との和睦・同盟を選択した。この際に持たれたとされるのが、富田(一宮市)の正徳寺での会見である。当時「尾張の大うつけ」と噂されていた信長を試そうとした道三であったが、武装して堂々と現れた信長の器量を見抜き、「我が子たちは信長の門前に馬を繋ぐことになる(信長に臣従することになる)」と、その才能をいち早く見抜いたという逸話が有名である。
長良川の戦いと美濃の行方
信長という強力な後ろ盾を得た道三であったが、家督を譲った嫡男・斎藤義龍(高政)との間で深刻な対立が生じる。義龍は道三に疎まれていることを察知し、また自身が追放された前守護・土岐頼芸の血を引いているという大義名分(異説あり)を掲げて挙兵した。1556年、道三は長良川の戦いにおいて義龍の軍勢と激突する。この戦いにおいて美濃の国人衆の多くは義龍側へとつき、孤立した道三は娘婿の織田信長からの救援が間に合わないまま敗死した。しかし道三は死の直前、美濃を信長に譲り渡すという「国譲り状」を遺したとされ、これが後に信長が「天下布武」を掲げて美濃攻略(稲葉山城攻略)を強行する上での強力な大義名分となった。