沢宣嘉 (さわのぶよし)
【概説】
幕末から明治時代初期にかけて活躍した公家、政治家。尊王攘夷派の急進的な公卿として活動し、八月十八日の政変によって京都を追われた「七卿落ち」の一人。その後、但馬国で蜂起した「生野の変」において主将に擁立され、維新後は初代外務卿として近代日本の外交を担った。
幕末の政局と「七卿落ち」
沢宣嘉は、公家である裏松家の出身で、のちに沢家の養子となった。幕末の尊王攘夷運動が激化するなか、三条実美らとともに朝廷における急進的な攘夷派公家として活動した。しかし、1863(文久3)年8月18日、薩摩藩と会津藩が結託して急進派の長州藩や尊攘派公家を京都から追放する八月十八日の政変が勃発する。これにより、沢は三条らとともに失脚し、官位を剥奪されて長州藩へと下向した。この事件は七卿落ちと呼ばれ、沢はその一員として幕府から追われる身となった。
生野の変の勃発と主将としての擁立
長州に逃れた七卿のうち、沢は現状を打破すべく、密かに長州を脱出して但馬国(現在の兵庫県北部)へと潜入した。1863年10月、福岡藩の尊攘派浪士である平野国臣や、地元の豪農らが主導する武装蜂起に、主将として擁立される。これが生野の変である。彼らは幕府の生野代官所を占領し、攘夷の兵を挙げたが、周辺諸藩の素早い出兵によって瞬く間に包囲された。戦況が不利と悟った沢は、平野らと袂を分かって戦線を離脱し、伊予国(愛媛県)などを経て再び長州へ逃れて潜伏した。この挙兵の失敗は、当時の草莽(在野の志士や豪農)による武装蜂起の限界を示すものとなった。
明治新政府での復権と初代外務卿就任
1867(慶応3)年の王政復古の大号令により、沢は復権を果たして京都へ戻った。戊辰戦争の最中には九州鎮撫総督などの要職を歴任し、新政府の地方支配の確立に貢献した。1869(明治2)年には、新政府の外交部門のトップである外務卿に就任する。当時はキリスト教徒弾圧(浦上四番崩れ)に対する欧米諸国からの抗議や、不平等条約の改正交渉といった難題が山積していた。沢は外国公使との交渉にあたり、近代的な外交官制の整備に努めた。その後、1873(明治6)年に39歳で病没し、激動の生涯を閉じた。