近藤勇 (こんどういさみ)
【概説】
幕末期に京都の治安維持活動で活躍した新選組の局長。武蔵国の農民出身ながら剣術「天然理心流」の宗家を継ぎ、尊王攘夷派を弾圧した池田屋事件などで名を馳せて幕臣に取り立てられたが、戊辰戦争で敗れて刑死した非業の志士。
天然理心流の継承と新選組の結成
近藤勇は1834年、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の豪農・宮川家の三男として生まれた。幼少期より剣術に優れ、江戸牛込の試衛館道場主であった近藤周助の養子となり、天然理心流の四代目宗家を襲名した。実戦を重視するこの剣術を通じて、後に新選組の幹部となる土方歳三や沖田総司らと結びつきを強めることとなる。
1863年、将軍・徳川家茂の上洛警護を名目に募集された「浪士組」に試衛館の同志らとともに応じて上洛。しかし、浪士組の首謀者である清河八郎が尊王攘夷の実行を画策したためこれと決別し、京都に残留した。その後、京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下となり、新選組を結成してその局長に就任した。近藤は「局中法度」と呼ばれる極めて厳しい規律を定め、尊王攘夷派の浪士を取り締まる鉄の結束を誇る軍事・警察組織を作り上げた。
池田屋事件と幕臣への登用
近藤の名を天下に轟かせたのが、1864年に起きた池田屋事件である。長州藩などの尊王攘夷派過激浪士が京都の町に火を放ち、一橋慶喜(徳川慶喜)や松平容保の暗殺、さらに天皇の長州臨幸を企てているという情報を察知した近藤らは、三条木屋町の宿宿「池田屋」を襲撃。激しい戦闘の末に志士らを捕縛・殺害し、計画を未然に防いだ。
この功績により、新選組は朝廷や幕府から絶大な信頼を得ることとなり、近藤自身も後に幕臣(旗本)に格上げされた。厳格な身分制度が存在した江戸時代において、農民の出自である近藤が将軍の直臣となったことは極めて異例であり、幕末という旧秩序の崩壊期を象徴する出来事であった。
戊辰戦争の敗北と悲劇的な最期
1867年の大政奉還および王政復古の大号令を経て、旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が勃発すると、近藤率いる新選組も旧幕府側として参戦した。最初の衝突となった鳥羽・伏見の戦いで近代兵器を擁する新政府軍に敗北すると、江戸へ撤退。近藤は「甲陽鎮撫隊」を結成して甲斐国(山梨県)で新政府軍を迎え撃ったが、甲州勝沼の戦いで大敗を喫した。
その後、再起を図るため下総国流山(千葉県流山市)に陣を敷いたが、新政府軍に包囲されて投降した。近藤は「大久保大和」と偽名を名乗ったものの、元土佐藩士の谷干城らによって正体を見破られ、捕縛された。そして1868年、板橋の刑場にて斬首処刑され、その首級は京都の三条河原に晒された。武士としての「切腹」すら許されなかった非業の最期は、京都で多くの同藩士を失った薩摩・長州ら新政府側からの強い怨恨の表れでもあった。