条約勅許 (じょうやくちょっきょ)
【概説】
1865年(慶応元年)、イギリスをはじめとする四国連合艦隊が兵庫沖に来航して軍事的圧力をかけた結果、孝明天皇が安政の五カ国条約などの通商条約を正式に承認した出来事。これにより1858年の違勅調印以来の懸案が解決し、尊王攘夷運動の大義名分が失われるという幕末政局における重要な転換点となった。
安政の五カ国条約と「違勅調印」の禍根
1858年(安政5年)、江戸幕府の大老井伊直弼は、日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約に調印した。しかし、極端な攘夷主義者であった孝明天皇はこれに強く反対しており、幕府は朝廷からの許可、すなわち「勅許」を得ないまま条約を結ぶこととなった。この「違勅調印」は、朝廷の権威をないがしろにするものとして激しい反発を招き、全国各地で尊王攘夷運動が沸き起こる最大の原因となった。以後、幕府は諸外国からは条約の確実な履行を求められる一方で、国内では攘夷派からの突き上げを受けるという、深刻な板挟み状態に陥ることになった。
四国連合艦隊の兵庫沖来航と幕府の危機
幕府は長州征討などを通じて国内の統制回復を図っていたが、諸外国は幕府の条約履行能力に不信感を抱いていた。1865年(慶応元年)、イギリス公使パークスの主導により、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊が突如として兵庫沖(大坂湾)に侵入した。彼らは艦隊の武力を背景に、天皇による条約の勅許、条約で規定されていた兵庫(神戸)の早期開港、そして関税率の引き下げという3つの要求を突きつけた。当時、将軍徳川家茂や幕閣の多くは長州征討のため大坂城に滞在しており、この直接的な軍事的脅威は幕府首脳を激しく動揺させた。老中阿部正外らは事態を収拾するため、朝廷の許可を得ずに独断で兵庫開港を諸外国に約束してしまう。
一橋慶喜の奔走と孝明天皇の決断
老中の独断による開港約束を知った朝廷は激怒し、阿部正外らの官位を剥奪して処罰した。これに対し将軍家茂は、幕府の人事権への介入に反発して将軍職の辞意を表明し、幕府と朝廷の関係は一触即発の危機に陥った。この窮地を救うべく動いたのが、将軍後見職などを歴任し、当時京都で幕府側の重鎮として活動していた一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)である。慶喜は朝廷に対し、諸外国の要求を拒絶すれば即座に戦争となり、国家は滅亡の危機に瀕すると強硬に説得を重ねた。最終的に孝明天皇も事態の深刻さを理解し、兵庫開港については断固として拒否したものの、これまで頑なに拒んできた通商条約そのものの承認(条約勅許)についてはついに同意を与えたのである。
条約勅許の歴史的意義と討幕運動への影響
この条約勅許が幕末の政治史に与えた影響は極めて大きい。1858年の違勅調印から7年越しに条約の正当性が天皇によって保証されたことで、反幕府勢力が掲げていた「破約攘夷(条約を破棄して外国を打ち払う)」という大義名分は根底から覆され、事実上消滅した。これにより、長州藩や薩摩藩などの反幕府勢力は、もはや「攘夷」を掲げて幕府を攻撃することはできなくなり、運動の方針を「武力討幕(倒幕)」へと明確に転換させていくこととなる。また、幕府はこの勅許を前提として、翌1866年には諸外国との間で輸入関税率を大幅に引き下げる改税約書に調印することとなり、日本の経済基盤に多大な影響を及ぼすこととなった。