パークス
【概説】
幕末から明治初期にかけて活躍したイギリスの外交官。第2代駐日公使として来日し、薩摩藩や長州藩などの有力な雄藩に接近して天皇を中心とする新政権の樹立を支持した。フランスが幕府を後援する中で中立を維持しつつ倒幕派を支援し、明治維新の政局に決定的な影響を与えた人物である。
駐日公使就任と対日政策の転換
ハリー・パークスは、アヘン戦争やアロー戦争での対清交渉で頭角を現したアジア外交の専門家であった。1865年、初代駐日公使オールコックの後任として来日すると、ただちにイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国連合艦隊を率いて兵庫(神戸)沖に現れ、幕府に対して兵庫開港と条約勅許を強く迫り、これらを認めさせることに成功した。この外交交渉の過程で、パークスは江戸幕府の統治能力が限界に達していること、そして日本を実質的に動かしているのは幕府ではなく、朝廷(天皇)および有力な雄藩であることを鋭く見抜いた。特に、日本通の通訳官であったアーネスト・サトウらの情報分析に基づき、イギリスの国益を守るためには幕府一辺倒の外交を改め、諸藩との関係を強化すべきであるとの確信に至った。
ロッシュとの対抗と「局外中立」の裏側
当時、フランス公使のロッシュは幕府を全面的に支援し、横須賀製鉄所の建設や軍事顧問団の派遣を通じて、日本におけるフランスの影響力を強めようとしていた。これに対抗する形で、パークスは薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允らと密かに接触を重ね、彼らが主導する天皇中心の諸藩連合政権の樹立を期待するようになる。1868年に戊辰戦争が勃発すると、パークスはイギリスの立場を形式上は局外中立としつつも、薩長を中心とする新政府側の正統性を事実上認め、旧幕府軍への支援を封じることで新政府の勝利を後押しした。また、江戸城無血開城の際には、徳川慶喜の助命や徳川家の存続を新政府に働きかけるなど、戦後の政局安定化にも深く関与した。
明治維新後の近代化支援と条約改正への障壁
明治政府の成立後も、パークスは1883年まで約18年間にわたり駐日公使の任にあり続けた。彼は日本の近代化を促すため、イギリスの技術を用いた鉄道建設や電信の敷設、灯台の設置などを積極的に支援し、日本の近代化に多大な貢献を果たした。しかしその一方で、日本が悲願とした不平等条約の改正に対しては極めて冷淡であった。岩倉使節団の交渉時などには、日本の法制度や人権意識の未熟さを指摘し、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復に頑強に反対し続けた。このため、日本に近代化をもたらした指導者として評価される一方で、明治の日本外交にとっては最大の障壁としても立ちはだかった存在であった。