生口

重要度
★★

生口 (せいこう)

2世紀〜3世紀頃

【概説】
弥生時代の倭国から中国の王朝へ献上された、奴隷または戦争捕虜とされる人々。中国の史書である『後漢書』や『三国志』に記録されており、当時の倭国における社会階級の発生や対外外交の進展を示す重要な存在である。

中国史料における「生口」の記録

「生口」という語が日本史の史料に初めて登場するのは、後漢の安帝の時代(永初元年・107年)の出来事を記した『後漢書』東夷伝である。そこには、倭国王帥升(すいしょう)らが「生口百六十人」を献上し、朝見を願ったと記録されている。これは、日本の歴史において文献に記録された最初の人物(帥升)の活動であると同時に、まとまった数の生口が中国に送られたことを示している。

その後、3世紀の『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)にも再び生口が登場する。邪馬台国の女王である卑弥呼が、魏の景初2年(238年、一説に239年)に難升米(なしめ)らを派遣した際、男女の「生口」10人を献上したとある。さらに正始4年(243年)にも、卑弥呼は魏に対して生口などを献上している。これらの記録から、生口の献上は倭国の首長たちにとって、中国王朝との外交関係を維持・強化するための重要な貢ぎ物であったことがわかる。

生口の定義と弥生社会の変容

生口の具体的な実態については、「生きながら生け捕りにされた人々」、すなわち戦争捕虜であるとする説が有力である。弥生時代の中期から後期にかけて、日本列島では稲作農耕の普及にともない、土地や水をめぐる「クニ」同士の武力衝突が常態化した(いわゆる倭国大乱など)。この激しい抗争の中で、敗北した側のクニの住民や兵士が捕らえられ、勝者の隷属民(奴隷)となったと考えられている。

彼らは単なる労働力として酷使されただけでなく、支配階級(王や大夫)による所有物として扱われ、外交交渉における進物としても利用された。このように、生口の存在は、当時の倭国社会が共同体的な平等の段階を脱し、身分階級の格差や支配・被支配の構造が確立した階級社会へと移行していたことを裏付けている。

対中国朝貢外交における役割と歴史的意義

倭国の王たちが、なぜ生口を中国の皇帝に献上したのか。その背景には、中国を中心とする東アジアの国際秩序(冊封体制)がある。倭国王や卑弥呼は、中国王朝に貢ぎ物を届けて服属の意思を示すことで、その見返りとして自らの支配権を公認する「金印」や「銅鏡」を獲得しようとした。

中国の皇帝にとって、遠方の「東夷」の国から人間(生口)が献上されることは、自らの徳治が辺境にまで及んでいることを誇示するための絶好の宣伝材料となった。そのため倭国側は、皇帝が最も喜ぶ貢ぎ物として、高価な布製品などとともに生口を差し出したのである。生口の献上を伴う朝貢外交は、国内の他勢力に対する圧倒的な優位性を確保するための、弥生貴族たちの重要な政治戦略であったといえる。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 青森県田舎館村にあり、弥生時代中期には東北地方北部でも大規模な水田耕作が行われていたことを示す遺跡はどこか?
Q. 荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などがあり、弥生時代に強大な独自の勢力が存在したと考えられる島根県東部の地域はどこか?
Q. 「あかねさす紫野行き標野行き…」などの感情豊かな歌を残し、万葉集の初期を代表する女流歌人は誰か?