大村益次郎 (おおむらますじろう)
【概説】
幕末から明治維新期にかけて活躍した長州藩出身の医師、洋学者、兵学者。緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、のちに長州藩の軍制を西洋式に近代化して第二次長州征討や戊辰戦争を勝利に導いた。明治新政府において近代的な国民皆兵に基づく国軍の創設に尽力し、「日本陸軍の父」と称される。
蘭学の修学と村田蔵六の誕生
大村益次郎は文政7年(1824年)、周防国吉敷郡の村医者の長男として生まれた。当初は村田蔵六(むらたぞうろく)と名乗り、広瀬淡窓の私塾などで漢学を学んだ後、大坂で緒方洪庵が主宰する適塾に入門した。ここで蘭学や医学を熱心に学び、優秀な成績を収めた彼は適塾の塾頭を務めるまでになる。その後、その高い蘭学の知識を見込まれて宇和島藩に招かれ、西洋兵学書の翻訳や、日本兵学史上初となる西洋式軍艦(ひな形)の建造に携わった。安政3年(1856年)には江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、やがて江戸幕府の蕃書調所の教授方手伝に抜擢されるなど、蘭学者・兵学者として全国的な名声を確立していった。
長州藩の軍制近代化と第二次長州征討
文久3年(1863年)、幕府での活動を経て故郷の長州藩に帰藩し、藩の要職に就く。この頃の長州藩は、外国艦隊との交戦(下関戦争)や禁門の変での敗北を経験しており、軍事的な近代化が急務となっていた。大村は高杉晋作らが創設した奇兵隊をはじめとする諸隊に対し、身分を問わない実力主義に基づく西洋式軍制への再編を指導した。旧式のゲベール銃から最新式のミニエー銃への装備更新や、散兵戦術の導入など、合理的な西洋兵学に基づく徹底した訓練を行った。慶応2年(1866年)の第二次長州征討(四境戦争)では、自ら石州口の部隊の戦術指揮を執った。彼の卓越した采配と近代化された長州軍の前には、旧態依然とした幕府軍はなす術もなく、長州藩に圧倒的な勝利をもたらした。この多大な功績により、藩主から「大村益次郎」の名を与えられた。
戊辰戦争における戦術的天才性
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争においては、新政府軍の軍務官判事(のち総監)として江戸に下向し、軍の指揮を執った。特に江戸城無血開城後、上野の寛永寺に立てこもった旧幕府軍の残党組織彰義隊との戦い(上野戦争)において、彼の軍事的才覚は遺憾なく発揮された。大村はアームストロング砲などの最新兵器を効果的な位置に配置し、緻密な包囲網を敷くことで、約2000人ともいわれる彰義隊をわずか1日で鎮圧した。この圧倒的な勝利は、新政府軍の軍事的な優位性を国内外に強く印象づける決定的な出来事となった。その後も東北戦争の平定に向けた戦略立案を主導し、新政府軍を内戦の勝利へと導いた。
近代国軍の創設構想と非業の死
明治新政府が成立すると、大村は軍事行政を統括する兵部省の兵部大輔(実質的なトップ)に就任し、日本の近代的な軍制構築に本格的に着手した。彼は一部の武士(士族)のみが軍事力を担う旧来の封建的兵制を真っ向から否定し、フランスの兵制を範とした国民皆兵に基づく近代的な国軍の創設を強く主張した。さらに、国内の治安維持のための鎮台兵の設置や、軍人教練所(のちの陸軍士官学校)の開設、廃刀令の構想など、急進的な改革を次々と推し進めた。しかし、武士の特権を奪うこれらの政策は、特権維持を望む保守派や不平士族の激しい反感を買うこととなった。明治2年(1869年)9月、京都の旅館で不平士族の刺客に襲撃されて重傷を負い、同年11月に敗血症を併発して46歳で死去した。彼の志半ばでの死は新政府にとって大きな痛手となったが、その建軍構想はのちに同郷の山県有朋らに引き継がれ、明治6年(1873年)の徴兵令公布や近代日本陸軍の礎となった。