打ちこわし
【概説】
江戸時代に発生した、飢饉や買い占めなどによる米価高騰に怒った都市の貧民が、米屋や質屋などの大商人を襲撃し、家屋や家財を破壊した暴動。貨幣経済の発展に伴う貧富の差の拡大を背景としており、江戸時代を通じて激化し、幕藩体制を大きく揺るがす要因となった。
打ちこわしの発生要因と性質
江戸時代中期以降、貨幣経済が全国的に浸透すると、江戸や大坂などの巨大都市には農村から離脱した多くの下層民が流入した。彼らはその日暮らしの賃労働に従事し、日用の米をその都度小買いして生活していたため、米価の高騰は直接的に死活問題となった。天候不順や災害による不作、あるいは商人による米の買い占めや売り惜しみが発生すると、生存を脅かされた都市下層民は実力行使に打って出た。これが打ちこわしである。
農村において農民が領主権力(幕府や藩)に対して年貢の減免などを要求する「百姓一揆」とは異なり、打ちこわしは主に都市において、富を独占する米屋・質屋・酒屋などの特権的商人(町人)を標的とした。襲撃の際は、家屋の破壊や家財の打ち捨てが行われたが、金品の略奪や放火は厳しく戒められる傾向があった。これは、単なる暴徒による略奪ではなく、自らの行為を「悪徳商人に対する世直しのための正当な制裁(義挙)」とする独自の論理と道徳観念が働いていたためである。
歴史的展開と三大飢饉
打ちこわしは17世紀後半から散発的に見られたが、本格化・大規模化するのは江戸時代中期以降である。江戸で初めての本格的な打ちこわしは、享保の大飢饉に端を発した1733年(享保18年)の享保の打ちこわしである。この時、買い占めを行っていたとされる米問屋の高間伝兵衛(たかまでんべえ)の家が多数の町衆によって襲撃された。
その後、気象条件の悪化による飢饉のたびに全国の都市で打ちこわしが発生した。特に1787年(天明7年)に起きた天明の打ちこわしは、天明の大飢饉を背景に江戸・大坂・京都の三都をはじめ、全国各地の都市で同時多発的に発生した。江戸では数日間にわたって無数の商店が標的となり、都市機能が完全に麻痺するという未曾有の事態となった。
さらに19世紀の天保の大飢饉の際にも各地で激しい打ちこわしが発生し、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱では、大坂の元幕府役人が都市貧民を率いて大商人を襲撃し、幕府に多大な衝撃を与えた。
幕政改革と都市政策への影響
打ちこわしの頻発は、幕府や諸藩の統治能力に対する都市民の不信感を露わにし、幕藩体制を大きく動揺させた。幕府は打ちこわしを武力で鎮圧し首謀者を厳罰に処す一方で、暴動の再発を防ぐために根本的な都市問題の解決に乗り出さざるを得なくなった。
天明の打ちこわしに直面し、直後に老中となった松平定信は、寛政の改革において江戸の町に対して七分積金(町費の節約分を積み立てさせる制度)を命じ、貧民救済と物価調整の拠点として町会所を設置した。また、天保期には老中・水野忠邦が天保の改革を実施し、物価高騰の原因とされた株仲間を解散させるなど、打ちこわしの脅威は江戸時代の政治動向(三大改革)の方向性を決定づける極めて重要な要因となった。
幕末の「世直し」への昇華
幕末期に入ると、1859年の開港に伴う輸出の急増によって深刻な品不足とインフレーションが生じ、都市下層民の生活はさらに窮迫した。この時期の打ちこわしは、単なる米価高騰への抗議にとどまらず、貧富の差が固定化された社会体制そのものの変革を期待する「世直し」の性質を強く帯びるようになった。
第二次長州征討に伴う物価高騰が起きた1866年(慶応2年)頃には、江戸や大坂などの大都市だけでなく、商品経済が浸透していた農村部にも打ちこわしが波及し、貧農が村の豪農や高利貸しを襲撃する世直し一揆へと結びついていった。このように、都市から農村へと広がりを見せた打ちこわしの巨大なエネルギーは、幕府の権威を完全に失墜させ、江戸幕府崩壊へと向かう歴史のうねりの中で決定的な役割を果たしたのである。