石山戦争(石山合戦)

織田信長に対する最大の脅威となった、浄土真宗の石山本願寺と信長との間に約10年間にわたって繰り広げられた戦いを何というか?
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重要度
★★★

【参考リンク】
石山合戦(Wikipedia)

石山戦争(石山合戦)

1570年〜1580年

【概説】
1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)にかけて、顕如率いる石山本願寺を中心とする浄土真宗(一向宗)勢力と、織田信長との間で行われた約10年に及ぶ一連の戦い。全国の門徒や反信長勢力と結びついた本願寺は、信長の天下統一事業における最大の障壁として立ちはだかった。

開戦の背景と信長包囲網の形成

織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内の平定を進めるなかで、大坂という交通・経済の要衝を占める石山本願寺に対し、莫大な矢銭(軍資金)の要求や石山の明け渡しを迫ったとされる。これに危機感を抱いた浄土真宗本願寺派第11世宗主・顕如(けんにょ)は、1570年(元亀元年)に諸国の門徒に対して「信長は仏法を破滅させる仏敵である」との激文を発布し、挙兵を決意した。

顕如は単なる宗教勢力の長としてだけでなく、優れた外交手腕を発揮した。浅井長政、朝倉義景、武田信玄、さらには将軍・足利義昭や西国の覇者・毛利輝元らと巧みに同盟を結び、いわゆる信長包囲網の重要な一角を形成した。これにより信長は、四方から敵に囲まれる絶体絶命の危機に幾度も陥ることとなる。

全国規模での一向一揆と激しい攻防

石山本願寺の挙兵に呼応し、畿内周辺だけでなく、伊勢長島一向一揆や越前一向一揆など、全国各地で門徒が一斉に蜂起した。信長はこれらの反乱に対し、武力による苛烈な鎮圧をもって臨んだ。特に長島や越前では、数万人規模の門徒を男女の別なく撫で斬りにするなど、徹底的な殲滅作戦を敢行している。

一方で、本願寺側は強力な要塞である石山の地の利を活かすとともに、鉄砲の扱いに長けた紀伊の雑賀衆(さいかしゅう)などの傭兵集団を味方に引き入れ、織田軍に対して頑強な抵抗を続けた。本願寺の強固な防衛網と、全国から集まる門徒の熱狂的な戦闘力は、織田軍の有力武将たちをも大いに苦しめた。

海上補給線を巡る激突(木津川口の戦い)

石山本願寺が長期間にわたって籠城を続けられた最大の要因は、背後の海路を通じて西国の毛利氏から食糧や弾薬の補給を受けていたことにあった。1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは、村上水軍を中心とする毛利水軍が、焙烙火矢(ほうろくひや)を用いた戦法で織田水軍を壊滅させ、本願寺への兵糧搬入に成功する。

これに対し信長は、水軍の将である九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて、燃えないように鉄板で装甲を施したとされる巨大な鉄甲船を建造させた。1578年(天正6年)の第二次木津川口の戦いで、新造された織田の鉄甲船艦隊は毛利水軍を打ち破ることに成功する。これにより本願寺の海上補給路は完全に遮断され、石山は孤立を深めていくことになった。

勅命講和と戦国宗教勢力の解体

海上封鎖による物資の枯渇に加え、武田氏の滅亡や上杉氏の家督争い、さらには有岡城の荒木村重の反乱鎮圧など、周囲の同盟勢力が次々と瓦解していく中、本願寺はついに抗戦の継続を断念する。1580年(天正8年)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命による講和という形式(勅命講和)をとり、顕如は信長と和睦して石山を退去した。一部の強硬派(教如ら)は一時的に抵抗を続けたものの、最終的には彼らも退去し、10年に及んだ石山戦争は終結した。

この戦いの終結は、中世以来、大名に匹敵する世俗的権力と軍事力を誇っていた巨大な宗教勢力が、ついに武家政権に完全に屈服したことを意味する歴史的転換点であった。最大の障壁を取り除いた信長は、天下統一事業をさらに加速させることとなる。なお、本願寺退去後に焼失した石山の跡地は、その絶好の立地に着目した豊臣秀吉によって、後に大坂城が築かれる場所となった。

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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