顕如(光佐)

全国の門徒に呼びかけて織田信長と激しく戦ったが、1580年に正親町天皇の勅命による和睦を受け入れて石山を退去した僧は誰か?
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重要度
★★

顕如(光佐) (けんにょ(こうさ)

1543-1592

【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけての浄土真宗(一向宗)本願寺第11世門主。織田信長の天下統一事業に対して最大の障壁として立ちはだかり、全国の門徒へ檄を飛ばして強固な抵抗運動を展開した指導者。巧みな外交戦略で反信長勢力と結び、10年にわたる石山合戦を戦い抜いたことで知られる。

教団の全盛期と織田信長との対立

顕如は天文12(1543)年、第10世証如の子として生まれた。彼が継承した当時の本願寺は、北陸や畿内を中心とする膨大な真宗門徒(一向衆)を組織化し、大名に匹敵する強大な軍事力と財政力を有する一大宗教国家となっていた。本拠地である摂津国の石山本願寺(現在の大阪城の地)は、淀川などの河川と瀬戸内海を結ぶ交通・交易の要衝であり、軍事的な難攻不落の要塞でもあった。

永禄11(1568)年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、畿内の支配権を確立する過程で、本願寺に対して巨額の矢銭(軍資金)の要求や石山からの退去を迫った。顕如は当初、一時的に金銭を支払うなどして融和を図ったが、宗教組織としての自立と存続を脅かす信長の方針に危機感を募らせ、ついに全面対決を決意することとなった。

「仏敵」信長への抵抗と信長包囲網

元亀元(1570)年9月、顕如は全国の門徒に向けて、信長を「仏法破滅の怨敵」と断定し、本願寺を守るために蜂起を促す檄文を送った。これに呼応して各地で一向一揆が激化。特に伊勢長島一揆や越前一揆は、信長を軍事的に激しく苦しめた。

さらに顕如は、室町幕府第15代将軍・足利義昭の呼びかけに応じる形で、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、安芸の毛利輝元、さらには近江の浅井長政・越前の朝倉義景らと結託し、強力な信長包囲網(第一次・第二次)を形成した。特に毛利氏の支援による海上からの兵糧・武器の搬入や、紀伊の雑賀衆による鉄砲隊の組織的な軍事支援は、本願寺が長期戦を戦い抜く上で不可欠な要素であった。

石山合戦の終結と本願寺の分裂

信長による各個撃破や長島・越前の一揆弾圧、さらには「第二次木津川口の戦い」での毛利水軍の敗退により、石山本願寺は次第に孤立していった。天正8(1580)年、顕如はこれ以上の抗戦は不可能と判断し、正親町天皇の仲介(勅命講和)を受け入れて信長と和睦し、石山本願寺を退去して紀伊国へ退いた。これにより10年に及んだ石山合戦は終結した。

しかし、この講和をめぐって本願寺内部に対立が生じた。徹底抗戦を主張して石山に残った長男の教如と、講和を重んじた顕如との間の確執は深く、これが後の本願寺の東西分裂(西本願寺・東本願寺)の引き金となった。信長の死後、顕如は豊臣秀吉と和解し、京都の堀川(現在の西本願寺の地)を寄進されて本願寺の再興を果たしたものの、教団の政治的・軍事的な独立性は失われ、近世的な宗教統制の中に組み込まれていくこととなった。

顕如:仏法再興の志を励まれ候べく候 (ミネルヴァ日本評伝選 208)

天下人に抗い権力と対峙した石山本願寺の法主、その生涯を通じて中世宗教界の変革と混迷を描き出した渾身の評伝。

信長と石山合戦: 中世の信仰と一揆 (歴史文化セレクション)

比叡山から本願寺まで激突した信長と宗教勢力の全貌、中世社会の信仰と一揆の構造を鮮やかに解き明かす一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 豊臣秀吉や江戸幕府の将軍が、公的な命令や特権(海外渡航の許可など)を認めるために朱色の印を押して発給した文書を何というか?
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