討幕の密勅
【概説】
1867年(慶応3年)、大政奉還と同日に朝廷から薩摩藩および長州藩に対して下された、江戸幕府の武力討伐を命じる秘密の勅書。岩倉具視ら倒幕派公家の工作によって作成されたこの文書は、武力討幕を正当化するための決定的な大義名分となった。しかし、徳川慶喜による大政奉還が同時に行われたことで「討つべき幕府」が消滅し、一度は実行延期を余儀なくされることとなった。
討幕への気運と公家たちの工作
1866年(慶応2年)の薩長同盟成立以降、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允らは武力による江戸幕府の打倒(武力討幕)を強力に志向し始めていた。しかし、いかに軍事力に優れていようとも、朝廷の許可なく兵を挙げれば反逆者である「朝敵」となる危険性があった。そのため、彼らは武力行使を正当化するための大義名分、すなわち天皇からの正式な命令である「勅書」を必要としていた。
この動きに呼応したのが、朝廷内で復権を狙う岩倉具視をはじめ、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之といった急進的な倒幕派の公家たちであった。彼らは薩長両藩の要請を受け、宮廷内での工作を秘密裏に進め、幕府討伐の正当性を付与する勅書の作成に奔走したのである。
密勅の内容と「偽勅」をめぐる議論
1867年(慶応3年)10月13日および14日、薩摩藩主の島津久光・茂久父子、長州藩主の毛利敬親・広封父子に対して、15代将軍・徳川慶喜の討伐を命じる密勅が下された。この文書には「賊臣慶喜を誅伐せよ」という激しい文言が記されており、薩長両藩に対して武力行使の明確な許可を与えるものであった。
しかし、この密勅は正規の手続きを踏んで発給されたものではないことが現代の歴史学の研究によって指摘されている。通常、勅書には天皇の裁可や関白、武家伝奏などの正規の役職者の承認と手続きが必要であるが、この密勅は中山忠能ら一部の公家が独断で作成した可能性が高い。そのため、法的な手続きを欠いた私文書に過ぎず、岩倉らによって捏造された偽勅(偽造された勅書)であったとする説が今日では有力となっている。
大政奉還との奇妙な符合
この密勅が下された10月14日という日付は、幕末の政治史において劇的な意味を持っている。まさに同日、徳川慶喜は京都の二条城において大政奉還を奏上し、政権を朝廷に返上したのである。
土佐藩の後藤象二郎や坂本龍馬らが推進した大政奉還の建白は、幕府が自ら政権を手放すことで武力討幕の名分を奪い、徳川家を中心とした新たな公議政体(諸侯会議)を樹立しようとする高度な政治的妥協策であった。慶喜が討幕派の機先を制する形で大政奉還を決断したことにより、「討つべき幕府」が事実上消滅してしまった。その結果、薩長両藩が苦労して手に入れた「討幕の密勅」は即座に実行の口実を失い、朝廷から実行延期の沙汰が下されることとなった。
密勅がもたらした歴史的意義
大政奉還によって武力討幕の計画は一時頓挫したかに見えた。しかし、「討幕の密勅」を授けられたという既成事実は、薩長両藩の将兵に強烈な目的意識と絶対的な大義名分を与え、討幕派の結束を盤石なものとしたのである。
密勅の存在を背景に軍事的な自信を深めた薩長両藩は、大軍を京都へ進上させて朝廷への軍事的圧力を強めていった。そして同年12月9日、武力討幕派はクーデターを断行して王政復古の大号令を発し、慶喜に対して辞官納地(官職と領地の返上)を激しく要求する。これが旧幕府側の激しい反発を招き、翌年の鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争へと繋がっていく。「討幕の密勅」は、たとえ偽勅であったとしても、幕末の政治的対立を武力決着へと不可逆的に導く、決定的な起爆剤として機能した歴史的転換点であったといえる。