三国時代

重要度
★★

三国時代

220年〜280年

【概説】
中国において、後漢の滅亡後に魏・蜀・呉の3国が並立して覇権を争った分裂時代。日本史における弥生時代後期から古墳時代初頭への過渡期に相当する。この時代の中国側の史料『三国志』に記述された「倭人伝」は、当時の日本(倭国)の社会や政治状況を知る上で極めて重要な手がかりとなっている。

三国鼎立の成立と東アジアの地政学的変動

2世紀末、後漢末期の動乱(黄巾の乱など)を経て実権を握った曹操の死後、その子である曹丕(文帝)が220年に帝位を奪ってを建国した。これにより後漢は滅亡し、これに対抗して劉備が221年に蜀(蜀漢)を、孫権が229年にを建国したことで、中国大陸を3分する「三国鼎立」の時代が本格的に到来した。この分裂状態は、280年に晋(西晋)が呉を滅ぼして統一を果たすまで約60年間続くこととなる。

この中国大陸における群雄割拠の情勢は、周辺の東アジア諸地域にも大きな影響を及ぼした。特に東北アジアから朝鮮半島にかけては、公孫氏という半独立政権が遼東を支配し、魏と対立していた。238年に魏の司馬懿がこの公孫氏を滅ぼしたことで、魏の勢力が朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡へと直接及ぶようになり、これが倭国(日本)の外交関係に決定的な変化をもたらすこととなった。

邪馬台国・卑弥呼の対魏外交とその意図

公孫氏の滅亡直後、倭国の邪馬台国の女王である卑弥呼は、239年(一説には238年)に魏の出先機関である帯方郡を通じて、魏の明帝(曹叡)に使者(難升米ら)を送った。魏はこれに対して卑弥呼を「親魏倭王」に冊封し、金印紫綬や多数の銅鏡(三角縁神獣鏡の起源とされるものなど)を授けた。

卑弥呼がこの時期に急ぎ魏へ朝貢した背景には、魏による東北アジア支配の再編という国際情勢の激変に対応するとともに、国内における「倭国大乱」の火種を抑え、近隣の敵対勢力(狗奴国など)に対して自らの政治的優位性を誇示しようとする高度な外交戦略があったと考えられている。その後も邪馬台国は魏の支援を仰ぎ、卑弥呼の死後に宗女の台与(とよ/いよ)が王位に就いた際にも、266年に魏から交代した晋(西晋)に使者を送るなど、三国時代の国際環境を巧みに利用して自国の安定を図った。

日本古代史の超一級史料としての『三国志』

この時代の歴史を記録した歴史書が、西晋の歴史家である陳寿によって3世紀末に著された『三国志』である。その中の「魏書」東夷伝倭人条、通称『魏志』倭人伝は、当時の倭国の社会制度、風俗、邪馬台国への道のりや卑弥呼の「鬼道」による支配などを詳細に伝えている。

自国における文字記録を持たなかった当時の日本において、この『三国志』の記述は、弥生時代後期の倭人社会の様相を伝える事実上の唯一の文字史料である。邪馬台国の所在地をめぐる「九州説」と「畿内説」の論争をはじめ、日本古代史研究の根幹となる論点は、この三国時代の中国側の記録に大きく依存している。したがって、三国時代は単なる中国の一時代にとどまらず、日本史の黎明期を紐解く上でも欠かすことのできない極めて重要な時代区分なのである。

正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

史料としての正確性と物語の源流を併せ持つ、三国志研究の基礎資料として欠かせない決定版全集。

中国の歴史4 三国志の世界 後漢 三国時代 (講談社学術文庫 2654)

史実の厳密な検証と当時の社会情勢を紐解き、三国時代の本質的な構造を浮き彫りにする歴史探求の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 第四紀のうち、氷期と間氷期が繰り返され、ナウマンゾウなどが生息していた約1万年前までの時代を何というか?
Q. 中国の皇帝が世界の中心であり、周辺諸国は野蛮であるとする、東アジアの国際秩序の根幹にあった中国の伝統的な世界観を何というか?
Q. 律令制の行政区分において、都が置かれ、政治・経済の中心として特別扱いされた大和・山城・河内・摂津・和泉(のちに独立)の地域を総称して何というか?