いろは四十七組 (いろはしじゅうななぐみ)
【概説】
江戸幕府の享保の改革において、町奉行の大岡忠相によって組織された江戸の町火消の総称。隅田川より西側の地域を担当し、江戸の木造密集地帯における防火・防災体制を劇的に向上させた民間消防組織。
享保の改革と町火消の創設背景
江戸時代、拡大を続ける江戸の都市空間は常に大火の脅威に晒されていた。それまでの消防体制は、幕府が組織した旗本による定火消(じょうびけし)や、大名に課された大名火消などの武家火消が主流であり、これらは主に江戸城や武家屋敷の防衛を目的としていた。そのため、庶民が暮らす町人地の火災に対しては、十分な対応ができていないのが実態であった。
この状況を打破するため、8代将軍・徳川吉宗が主導した享保の改革のもと、町奉行の大岡忠相は、町人自身に町を防御させる自主防災組織の構築を模索した。こうして1720年(享保5年)に誕生したのが、隅田川以西の町地を「いろは」47文字の組に割り当てて編成したいろは四十七組(のちに48組)である。なお、隅田川以東の本所・深川地区には、別途「本所深川十六組」が組織された。
組織の再編と町人文化への影響
いろは四十七組は、名前に「いろは」の仮名を用いていたが、不吉な連想を避けるために一部の名称が変更された。例えば、「へ(屁)」は「百」に、「ら(「乱」に通じる)」は「千」に、「ひ(「火」に通じる)」は「万」に、「ん」は「本」に置き換えられるといった調整が行われ、最終的には48組の体制へと落とし込まれた。
これらの組を構成したのは、主に江戸の建築労働者である鳶職(とびしょく)たちであった。彼らは建築のプロとして、当時の消火活動の主流であった「破壊消防」(周囲の家屋を素早く引き倒して延焼を防ぐ方法)に最も適した技術と人脈を有していた。町火消の活動は、単なる防災組織にとどまらず、江戸の町民社会において強い連帯感を生み出し、町火消の「纏(まとい)」や「組半纏(くみばんてん)」などは、江戸っ子の男気や庶民文化を象徴するアイコンとして深く愛されることとなった。