蜀 (しょく)
【概説】
3世紀の中国三国時代において、四川盆地を中心として劉備が建てた国。漢の正統を受け継ぐ意思を示して正式な国号は「漢」としたため、歴史上は「蜀漢」とも呼ばれる。日本の弥生時代後期にあたる時期に存在し、三国鼎立の構図を形成したことで、当時の倭国(日本)を取り巻く東アジアの国際情勢に大きな影響を与えた。
三国鼎立の展開と蜀の建国
後漢末期の群雄割拠を経て、220年に曹丕(文帝)が魏を、翌221年に劉備が蜀を、229年に孫権が呉を建国したことで中国は三国時代に突入した。蜀は、名軍師として知られる諸葛亮(孔明)の「天下三分の計」に基づき、関中や中原への進出を図って幾度も魏への北伐を敢行した。
しかし、中原を領有し圧倒的な国力を誇る魏に対し、険峻な四川盆地を領土とする蜀は動員兵力や経済力の面で劣勢を強いられた。諸葛亮の死後は次第に国力が衰退し、263年に魏の将軍である鄧艾らの侵攻を受けて滅亡した。この蜀の滅亡と、その後の魏から晋(西晋)への禅譲、さらに280年の呉の滅亡によって、三国時代は終焉を迎えることとなる。
倭国(邪馬台国)の外交に与えた国際政治上の影響
蜀の存在を含む三国鼎立の政治情勢は、同時代の日本の弥生社会、特に邪馬台国の外交政策と密接に関連している。邪馬台国の女王・卑弥呼が239年(または238年)に魏の帯方郡へ遣使し、「親魏倭王」の金印や銅鏡を授かった背景には、三国時代の激しい外交戦があった。
魏にとっては、南方の呉や西方の蜀と対峙する中で、背後の東夷(遼東の公孫氏や倭国、高句麗など)を懐柔し、自国の権威を高める必要性があった。特に公孫氏を滅ぼした直後の魏にとって、倭国からの朝貢は自国の正当性を宣伝する絶好の材料であった。このように、魏・呉・蜀の三つ巴の抗争が存在したからこそ、邪馬台国は中国王朝から手厚い外交的待遇(冊封)を受けることが可能となり、倭国内部での政治的優位性を確立できたと考えられる。
物質文化の流入と蜀の特産品
三国時代の動乱と交易は、倭国に高度な物産をもたらした。その代表例が、魏の皇帝から卑弥呼へ下賜された「赤地句文錦」などの織物や銅鏡である。蜀は伝統的に「蜀錦(蜀江錦)」と呼ばれる極めて質の高い絹織物の産地であり、これが重要な財源として魏や呉、さらには北方民族や西域への交易品として用いられていた。
魏の宮廷に集まったこれらの超一級の物産が、朝貢の返礼品として倭国にもたらされ、邪馬台国の支配者の権威を象徴する呪術的・政治的財宝となった。蜀をはじめとする中国大陸の先進技術や物産の流入は、弥生時代から古墳時代への過渡期における、日本の社会組織の階層化や前方後円墳の出現を促す契機となったのである。