日用 (ひよう)
【概説】
江戸時代の都市部において、その日暮らしの賃労働(日雇い労働)で生計を立てていた下層民のこと。農村の階層分化に伴って大都市へ流入した人々がその多くを占め、都市の建設や物流、多様な雑役を支える基盤的な労働力となった。
都市の急速な発展と労働力需要の増大
江戸時代、特に元禄期(17世紀末〜18世紀初頭)以降の経済発展に伴い、三都(江戸・大坂・京都)をはじめとする大都市は急速に膨張した。これに伴い、大工や左官などの建設労働、河川や街道での物資運搬、さらには日常の雑役に至るまで、一時的かつ大量の労働力が必要とされるようになった。
一方で、農村部では商品経済の浸透に伴って農民の階層分化が進行し、土地を失って没落する貧農が増加した。彼らの多くは、生計を立てるために法的な制限をかいくぐって都市へ流入し、特別な技能を持たないまま、その日に得られる仕事に従事する「日用(日用取り)」となった。都市の労働市場は、これら農村からの流入人口を吸収することで成り立っていた。
日用の生活実態と多様な職種
日用の仕事は、大工や左官の助手、荷物の運搬や積み下ろしを行う人足、土木作業、川並(木材の整理)など、多岐にわたった。彼らの多くは「日用取り」と呼ばれ、1日単位で雇われて現金の賃金を得ていた。技能や雇用の形態によっては、特定の親方(宿元や口入屋)に仲介されて働くことも一般的であった。
彼らの生活基盤はきわめて不安定であった。多くは店借(たなかり)として裏長屋の借家に住み、日々の生計をその日の賃金に依存していたため、天候不良による作業中止や景気の変動、あるいは自身の病気や怪我は、即座に飢餓や生活破綻へと直結した。そのため、日用は都市の下層社会を構成する代表的な存在であり、常に貧困と隣り合わせの生活を送っていた。
幕府の都市政策と日用への対応
日用の存在は都市の活力を支える一方で、幕府にとっては治安維持上の懸念材料でもあった。ひとたび飢饉(天明の飢饉や天保の飢饉など)や不況が発生すると、彼らは容易に困窮し、都市打毀(うちこわし)などの暴動の主たる担い手や、無宿(戸籍を失った者)へと転落したからである。
このため、江戸幕府や町奉行所は彼らを社会不安の要因として警戒した。寛政の改革において松平定信が発令した旧里帰農令は、江戸に流入した日用をはじめとする出稼ぎ民を農村へ強制あるいは奨励によって還流させようとする政策であった。また、無宿や犯罪予備軍とされた人々を収容し、手工業の技術を習得させて自立を促す施設として人足寄場(石川島など)が設置されたのも、こうした日用層の滞留と不安定化に対処するためのものであった。