徳川家重 (とくがわいえしげ)
【概説】
江戸幕府の第9代将軍。8代将軍・徳川吉宗の長男であり、生まれつき言語障害を抱えながらも側近を通じた独自の政治運営を行った人物。その治世は享保の改革の緊縮路線を継承しつつ、次代の田沼意次が台頭する過渡期として重要な歴史的意義を持つ。
言語障害と大岡忠光による「御側側近政治」
徳川家重は生まれつき病弱であり、極めて言語が不明瞭であった。この症状は現代の医学から脳性麻痺によるものと推測されている。将軍としての意思疎通が困難な中、家重の言葉を唯一聞き取ることができたとされる小姓出身の大岡忠光が、御側御用人(のちに若年寄)として起用され、将軍と老中たちの間を仲介する役割を担った。忠光を介して将軍の意向が伝達される体制は、結果として将軍側近の権限を強めることとなった。これは、将軍みずからが主導した父・吉宗の親政体制から、再び側近政治へと移行する大きな転換点となった。
財政再建の継続と薩摩藩を追い詰めた「宝暦治水」
家重の治世は、吉宗が推進した「享保の改革」の路線を基本的に継承した。特に勘定奉行の神尾春央を重用し、徹底的な年貢増徴による幕府財政の安定化が図られた。神尾が唱えたとされる「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど出るもの」という言葉(諸説あり)に象徴されるように、百姓への苛烈な課税によって幕府の金蔵は潤った。また、1754年には外様雄藩の財政圧迫を狙い、薩摩藩に対して苛酷な治水工事を命じた宝暦治水事件が起きている。この工事は多くの犠牲者と藩財政の破綻を招き、幕府の権威を誇示する一方で、地方社会や諸藩に深刻な爪痕を残した。
田沼意次の抜擢と「田沼時代」への橋渡し
歴史上、家重は「暗愚な将軍」と評されることが多いが、人材を見抜く目においては特筆すべきものがあった。その最たる例が、のちに老中として重商主義政策を推進することになる田沼意次の抜擢である。家重は意次の実務能力をいち早く見抜き、自らの側近として重用した。さらに、長男である10代将軍・徳川家治に対し、死去に際して「意次を重用するように」と言い残したとされている。この遺言がのちの「田沼時代」の到来を決定づけることとなり、家重の治世は享保の農本主義から田沼期の商業重視へと舵を切る、近世幕政史における重要な伏線となった。