重要度
★★

(ご)

222年〜280年

【概説】
3世紀の中国三国時代において、孫権が江南地方に建てた王朝。都を建業(現在の南京)に置き、豊かな長江流域の生産力と水軍の力を背景に、魏・蜀と鼎立した。日本史においては、邪馬台国の卑弥呼が魏へ朝貢した国際情勢の背景として、極めて重要な位置を占める国家である。

三国鼎立の一翼を担った江南の雄

後漢末期の動乱期、長江下流域の呉郡を地盤とする孫氏(孫堅・孫策・孫権)が勢力を拡大し、222年に孫権が魏から「呉王」に封じられたことで事実上立国した(229年に皇帝に即位)。呉は長江の天険を頼み、高い造船技術と強力な水軍を擁して、北方の魏に対抗した。同時に、開発途上であった江南地方の開拓を進め、後の南朝へとつながる江南文化の基盤を築いた。独自の海上ルートを通じて南海(東南アジア)や遼東地方とも通交し、280年に西晋によって滅ぼされるまで、独自の国際外交を展開した。

邪馬台国外交の契機となった魏・呉の対立

弥生時代後期の倭国(日本列島)における外交は、この魏と呉の対立構図と深く結びついていた。238年に魏が遼東の公孫氏を滅ぼした直後の239年、邪馬台国の女王である卑弥呼は魏に遣使し、「親魏倭王」の金印を得た。この外交交渉の背景には、魏による呉の包囲網形成という政治的意図が存在した。当時、呉は海路を通じて公孫氏や朝鮮半島南部の勢力、さらには東方の倭国とも結びつこうとする動きを見せていた。魏としては、東方の倭国を自陣営に引き込むことで、呉の背後を脅かし、海路からの圧力を相殺する狙いがあった。すなわち、卑弥呼の遣使が成功を収めたのは、魏が呉との抗争において倭国の戦略的価値を高く評価したためであった。

江南文化の東伝と倭人への影響

呉が位置した江南地方と日本列島は、東シナ海を挟んで古くから直接的・間接的な交流があった。考古学の分野では、弥生時代の日本列島に大きな変革をもたらした水稲耕作や、一部の青銅器・鉄器技術の源流が、呉の領域である長江下流域(江南地方)にあるとする説が有力視されている。また、後世の中国の歴史書である『晋書』倭人伝などには、倭人が自らを「太伯(春秋時代の呉の始祖)の後裔」と称していたという記述が残されており、古代の倭人が呉の地域に対して強い文化的・血縁的親近感を抱いていたことが示唆されている。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 玉虫厨子の側面に描かれた仏教説話画などに用いられている、漆に色粉を混ぜて描く飛鳥時代の絵画技法は何か?
Q. 石器時代を二分した際、土器を持たず、石を打ち欠いて作った石器だけを用いて生活していた古い時代を何というか?
Q. 律令制の給与の一つで、位階ではなく、その人が就いている特定の役職(官職)に応じて在任期間中に支給された田地を何というか?