田安家 (たやすけ)
【概説】
江戸幕府8代将軍徳川吉宗の次男・徳川宗武を家祖とする御三卿の一つ。将軍家に後嗣がない場合に後継者を供給する役割を担い、のちに寛政の改革を主導する松平定信の生家としても知られる親藩である。
御三卿の創設と田安家の成立
享保の改革を推進した8代将軍徳川吉宗は、将軍家の血統を安定的に維持し、さらに既存の御三家(尾張・紀伊・水戸)が幕政へ介入するのを抑制する目的で、自身の息子たちを分家させて新たな家格を創設した。これが御三卿である。その先駆けとして、享保15(1730)年に吉宗の次男・徳川宗武(むねたけ)が江戸城田安門内に邸宅を与えられたのが、田安家の始まりである。のちに吉宗の四男・宗尹(むねただ)が一橋家を、9代将軍家重の次男・重好(しげよし)が清水家を興し、御三卿の体制が確立した。
御三卿は、独自の領国と支配機構を持つ御三家とは異なり、城を持たない「抱屋敷(かかえやしき)」の形態をとり、幕府から十万石の賄領(給与)を支給された。家臣も幕府の旗本などから派遣されるなど、将軍家の強力なコントロール下に置かれた「身内」としての性格が極めて強かった。
知的な家風と松平定信の輩出
初代当主の徳川宗武は非常に聡明な人物であり、国学者である賀茂真淵を保護・招聘して古典や歌学を深く研究した。この学問を尊ぶ知的な家風は、宗武の七男として生まれた松平定信(幼名・賢丸)に強い影響を与えた。定信は一時期、子に恵まれなかった10代将軍徳川家治の後継者候補と目されたが、老中田沼意次らの警戒や、一橋家(のちの11代将軍徳川家斉の父である一橋治済)との政治的な暗闘により、陸奥白河藩の久松松平家へ養子に出された。のちに定信は白河藩主から老中へと上り詰め、祖父・吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を断行することとなる。
幕末・維新期における田安家の役割
田安家は、幕末の動乱期においても重要な役割を果たした。14代将軍徳川家茂が急逝した際、田安家当主の田安慶頼(よしより)は将軍後見職に就任し、幕政の混乱収拾に奔走した。さらに、慶応4(1868)年の戊辰戦争において15代将軍徳川慶喜が恭順・謹慎すると、慶頼の子である亀之助(のちの徳川家達)が、田安家から選ばれて徳川宗家16代当主となった。家達は駿府(静岡)藩主を経て、明治期には公爵となり、長きにわたって貴族院議長を務めるなど、近代日本においても旧徳川宗家の権威を保ち続けた。