朝鮮人参座 (ちょうせんにんじんざ)
【概説】
江戸時代中期の田沼意次政権期に、国産化に成功した朝鮮人参の流通・種苗管理を独占するために設けられた専売機関。超一級の高級薬種であった朝鮮人参の自給自足を促し、海外への金銀流出を防ぐとともに、幕府の財政収入(運上・冥加)を確保する役割を担った。
銀流出の危機と吉宗による国産化の系譜
江戸時代初期から中期にかけて、朝鮮人参は万病に効く不老長寿の秘薬として極めて珍重されていた。しかし、その多くを対馬藩を経由した朝鮮からの輸入に依存していたため、代価として莫大な銀が国外へと流出し、江戸幕府にとって深刻な貿易赤字をもたらしていた。この危機を打開すべく、8代将軍徳川吉宗は享保の改革において薬種の国産化(輸入代替)を推進した。幕府は対馬藩を通じて生きた朝鮮人参の株や種子を入手し、日光薬園などで試行錯誤を重ねた。その結果、18世紀半ばにはついに国内での栽培技術が確立されるに至った。
田沼意次の経済政策と「朝鮮人参座」の設置
国産化の成功を受け、宝暦13年(1763年)に当時の幕政の実権を握りつつあった田沼意次らの主導によって設立されたのが「朝鮮人参座」である。江戸と大坂に設置されたこの機関は、栽培に必要な種子や苗木の配布、栽培農家からの製品(人参)の買い上げ、そして市場への流通・販売権を独占した。田沼政権は、これを一種の株仲間として組織化し、加盟する特権商人に独占権を与える見返りとして運上・冥加(税金)を幕府へ納めさせた。これは、薬種の品質・価格を管理すると同時に、商人の活動から得られる利益を幕府財政へと還元させる重商主義的な専売政策の一環であった。
寛政の改革による廃止と国内産業への遺産
田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まると、幕府主導の極端な商業独占や特権商人との癒着は批判の対象となり、天明7年(1787年)に朝鮮人参座は廃止された。しかし、同座の活動を通じて洗練された栽培技術は、すでに全国各地の諸藩へと普及していた。特に会津藩(福島県)や松江藩(島根県)、信濃国(長野県)などでは、藩の財政を支える有力な特産品(御用人参)として定着し、のちには清(中国)へと輸出される有力な外貨獲得源にもなった。朝鮮人参座の試みは、幕府の専売政策としてだけでなく、日本の地域産業および薬用作物栽培の自立化を促す重要な契機となったのである。