長崎貿易
【概説】
江戸幕府のいわゆる「鎖国」体制下において、長崎に限定して行われたオランダおよび清(中国)との管理貿易。初期は日本の金銀が大量に流出する原因となったが、後に幕府は貿易制限や代替品の輸出奨励などの対策を講じ、日本経済と文化の発展に多大な影響を与えた。
「鎖国」体制と長崎の位置づけ
江戸幕府はキリスト教の禁教と貿易の統制を目的とし、1639年(寛永16年)にポルトガル船の来航を禁止して、いわゆる「鎖国」体制を完成させた。しかし、日本は完全に世界から孤立していたわけではなく、対外窓口として「四つの口」(長崎・対馬・薩摩・松前)が開かれていた。その中で唯一、幕府の直轄領として西洋諸国および中国との直接貿易が認められていたのが長崎である。
長崎では、キリスト教の布教を伴わないオランダと、明およびそれに代わって中国大陸を支配した清(唐人)の二国とのみ交易が行われた。幕府は1641年(寛永18年)に平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人をそこに隔離した。また、当初は長崎市内に雑居していた清国人も、1689年(元禄2年)に設けられた唐人屋敷に収容され、厳格な統制の下で貿易が実施されることとなった。
輸入品と深刻な金銀の流出
17世紀の長崎貿易において、日本側の最大の輸入品は中国産の白糸(生糸)や絹織物、砂糖、漢方薬などであった。オランダもアジアの中継貿易を担い、バタヴィア(現在のジャカルタ)を経由して中国産生糸などを日本へもたらした。一方、日本からの主な輸出品は銀であり、のちに金や銅も決済に用いられた。当時の日本は世界有数の銀産出国であったが、慢性的な輸入超過の状態が続いたことで、国内の貴金属は大量に海外へと流出することになった。
この金銀の枯渇は、江戸幕府の貨幣経済を揺るがす深刻な問題となった。17世紀後半には国内鉱山における金銀の産出量が減少に転じており、幕府は貿易決済に銀に代わって銅(棹銅)の使用を奨励するなど対策を講じたが、流出の根本的な解決には至らなかった。
新井白石の「海舶互市新例」による制限
事態を重く見た幕府は、長崎貿易の大幅な制限に乗り出す。その代表的な政策が、1715年(正徳5年)に新井白石が主導して制定した海舶互市新例(正徳の新例)である。白石は、長崎貿易開始以来の金銀流出量を詳細に試算し、このまま放置すれば日本の貴金属が完全に枯渇するという強い危機感を抱いた。
この新例により、幕府はオランダ船の来航を年間2隻、取引額を銀3000貫に、清国船の来航を年間30隻、取引額を銀6000貫に厳しく制限した。これ以降、長崎貿易はそれまでの自由裁量の余地が著しく狭まり、幕府が完全に取引量と品目をコントロールする徹底した管理貿易へと移行したのである。
田沼時代の政策転換と「俵物」の輸出奨励
18世紀後半、田沼意次が実権を握った田沼時代になると、長崎貿易の性格は大きく転換する。重商主義的な経済政策を推し進めた田沼意次は、金銀の流出を防ぐという消極的な姿勢から一転し、貿易を通じて積極的に富(金銀)を国内に呼び込むことを目指した。
そこで幕府は、銅に代わる新たな輸出品として、海産物である俵物(たわらもの)の輸出を大いに奨励した。俵物とは、いりこ(ナマコ)、干しあわび、ふかひれの総称であり、清の宮廷料理や高級食材として中国側で非常に高い需要があった。幕府は全国の漁村からこれらの海産物を集荷する独占的な体制を整え、長崎経由で清へ輸出することで、清から金銀を日本へ引き戻すことに成功したのである。あわせて昆布やスルメといった諸色(しょしき)も大量に輸出された。
長崎貿易のもたらした歴史的意義
長崎貿易は、単なる物資の交換にとどまらず、海外の最新情報や学問・技術が日本にもたらされる極めて重要な情報ルートであった。オランダ商館長が来日の際に幕府に提出したオランダ風説書によって、幕府はヨーロッパやアジアの国際情勢を把握していた。また、ここから流入した西洋の医学や天文学、地理学などの書物は、のちに蘭学という形で発展し、日本の近代化の礎を築くこととなった。
長崎貿易は、江戸幕府の統制下において金銀の流出という経済的課題を抱えながらも、政策転換によって自国産業の育成(俵物等の生産奨励)を促し、同時に西洋文化の窓口としての役割を完遂した点で、日本史において極めて重要な意義を持っている。