浅間山
【概説】
信濃国と上野国の境に位置し、1783年に歴史的な大噴火を引き起こした活火山。この天明の大噴火による降灰と気候冷涼化は、当時進行していた天明の飢饉を劇的に深刻化させた。幕政においては田沼意次政権の崩壊と寛政の改革への転換を促すなど、江戸後期の政治と社会に極めて深刻な打撃を与えた地として知られる。
天明の大噴火と「天明の浅間泥流」による局所的災害
1783年(天明3年)7月、浅間山は数ヶ月に及ぶ活動の末に、歴史上最大規模とされる大噴火(天明の大噴火)を起こした。この噴火によって発生した熱原火砕流や鎌原火砕流は、北麓の鎌原村(現在の群馬県嬬恋村)を直撃し、一瞬にして多くの犠牲者を出した。さらに、崩落した膨大な土砂は吾妻川から利根川へと流入し、大規模な河道閉塞とそれに続く天明の浅間泥流(土石流)を引き起こした。この泥流は流域の村々を次々と破壊し、利根川の下流地域に深刻な洪水被害をもたらした。大量の瓦礫や遺体は江戸の河口にまで達し、関東の治水・水運に壊滅的な打撃を与えた。
天明の飢饉の深刻化と社会的打撃
浅間山の噴火がもたらした最大の歴史的影響は、局所的な被害にとどまらず、日本全国を巻き込む大飢饉を引き起こした点にある。噴火によって放出された膨大な火山灰や火山ガスは成層圏にまで達し、太陽光を遮ることで地球規模の冷涼化を招いたとされる。ただでさえ1780年代初頭から冷害や悪天候に悩まされていた東北地方をはじめとする日本各地は、これにより致命的な凶作に見舞われた。これが近世日本で最大級の惨劇とされる天明の飢饉の決定打となった。主食である米の収穫は皆無に等しくなり、各地で餓死者が急増した。農村では「百姓一揆」が頻発し、都市部でも米価高騰に怒る民衆による打ちこわしが激化するなど、幕藩体制を揺るがす深刻な社会不安が日本中を覆った。
田沼政権の終焉と「寛政の改革」への端緒
この未曾有の災害とそれに伴う社会の混乱は、当時の幕府政治に地殻変動をもたらした。当時、老中として重商主義的な開発政策を推進していた田沼意次は、利根川の復旧工事などに着手したものの、飢饉による社会秩序の崩壊を防ぐことができなかった。当時の儒教的な価値観のもとでは、こうした大災害は「為政者の徳の欠如」が招いたものと解釈され、田沼政治に対する不満が爆発する原因となった。1786年、後ろ盾であった10代将軍徳川家治の死去に伴い、田沼意次は失脚に追い込まれた。その後、政権を掌握した松平定信は、飢饉への備え(社倉・義倉の設置)や農民の帰農政策(旧里帰農令)を中心とする緊縮財政・農本主義の寛政の改革を推進することになり、幕政の方向性は大きく旋回することとなった。