佐野政言 (さのまさこと)
?〜1784年
【概説】
江戸時代中期の旗本。1784(天明4)年、江戸城内において老中田沼意次の嫡男である若年寄・田沼意知を暗殺した人物。この事件は田沼政治に対する世論の批判を爆発させ、田沼意次失脚の決定的な契機となった。
江戸城内での刺殺事件と政言の動機
佐野政言は、江戸幕府の将軍直属の軍事力である新番に所属する旗本(知行300石)であった。1784年3月24日、政言は江戸城中の廊下(響の間付近)において、当時若年寄として権勢を振るっていた田沼意知に背後から斬りつけた。意知は手当ての甲斐なく数日後に死亡し、政言はその場で捕らえられて翌月に切腹を命じられた。
暗殺の動機については、佐野家に伝わる系図の返還を田沼側に拒絶されたためとする説や、佐野家の所領をめぐる論争において田沼側から不当な扱いを受けたことへの遺恨など諸説あるが、詳細な真相は現在も明らかになっていない。
「世直し大明神」としての熱狂と田沼政権の終焉
当時、老中田沼意次が進めた重商主義的な政策は、商人の利権拡大や賄賂政治の蔓延を招いたとして激しい非難を浴びていた。さらに天明の大飢饉による飢餓やインフレが社会を覆っていたため、意次の後継者と目されていた意知を葬った政言は、苦しい生活にあえぐ庶民から「世の乱れを正した英雄」として大喝采を浴びることとなった。
政言は死後、庶民から「世直し大明神」と崇められ、その墓所には参拝者が殺到した。この暗殺事件によって田沼親子の権威は完全に失墜し、2年後の将軍徳川家治の死去に伴って意次は失脚に追い込まれた。結果として、この事件は田沼時代を終焉させ、松平定信による寛政の改革へと向かう歴史の大きな転換点となったのである。