エカチェリーナ2世
【概説】
18世紀後半のロシア帝国を統治した、絶対主義(開明専制)を代表する女帝。シベリア開発と極東への東方進出を積極的に推進するなかで、日本人漂流民の大黒屋光太夫を保護。彼らの送還と交易ルートの開拓を目指して使節ラクスマンを日本へ派遣し、江戸幕府に開国を迫る端緒を作った人物である。
ロシアの東方進出と漂流民・大黒屋光太夫の保護
18世紀後半、エカチェリーナ2世が治めるロシア帝国は、ヨーロッパにおける領土拡大のみならず、シベリア・極東地方の開発と毛皮交易の活性化、さらにはアラスカへの進出といった東方進出政策を積極的に展開していた。この北太平洋における活動の活発化が、鎖国体制下にあった日本との接触をもたらすこととなる。
1782年、伊勢国の船頭である大黒屋光太夫らの一行は、江戸へ向かう途中に駿河沖で遭難し、北太平洋を漂流した末にアリューシャン列島に漂着した。光太夫らはシベリアを横断してロシアの首都サンクトペテルブルクへと至り、女帝エカチェリーナ2世への謁見を果たす。開明的な君主であり、地理的知識や交易路の開拓に強い関心を寄せていた女帝は、光太夫を厚遇して帰国を許可し、シベリア総督に対して彼らの送還事業を命じた。
ラクスマンの派遣と江戸幕府への衝撃
エカチェリーナ2世の命を受けたシベリア総督は、1792年、アダム・ラクスマンを使節として日本へ派遣した。ラクスマンは光太夫らを伴って蝦夷地(現在の北海道)の根室に来航し、漂流民の送還を行うとともに、公式な通商関係の樹立を江戸幕府に要求した。
当時の日本は、老中松平定信による寛政の改革の最中であった。幕府は祖法である「鎖国」の原則を崩さない立場から国交こそ拒絶したものの、ラクスマンに対して漂流民の身柄引き渡しを認め、さらに長崎への入港許可証である信牌(しんぱい)を手渡して彼らを退去させた。この対対応はロシア側に対して通商の余地を残す形となり、のちの1804年におけるレザノフの長崎来航へとつながっていく。
日本史における歴史的意義と北方防備の開始
エカチェリーナ2世による対日接触は、長らく平和を享受していた江戸幕府にとって、北方の脅威を現実のものとして認識させる「外圧」の第一波となった。それまで長崎のみで西洋世界(オランダ)と接していた幕府は、蝦夷地という防備の手薄な北方の境界領域を強く意識せざるを得なくなった。
この事件を契機に、林子平による『海国兵談』などの対外危機を警告する思想が注目され、幕府は最上徳内や近藤重蔵らを派遣して蝦夷地の調査を急がせた。そして、段階的に蝦夷地(東蝦夷地、のちに西蝦夷地も含む)を幕府の直轄地とし、東北諸藩に警備を命じるなど、近代へと至る北方防備体制が本格化していくこととなる。エカチェリーナ2世の東方政策は、日本が国際社会の波にさらされる端緒を開いたと言える。