国後島
【概説】
北海道の東北、千島列島南部に位置する北方四島の一つである島。江戸時代後期にロシアの海軍軍人ゴローウニンが幕府警備隊に捕らえられた「ゴローウニン事件」の舞台であり、日露間の国境緊張を象徴する歴史的な地である。
アイヌの抵抗と松前藩・幕府による支配の強化
国後島は、古くから先住民族であるアイヌの活動舞台であった。江戸時代、松前藩は支配下の商人に交易を請け負わせる場所請負制を導入し、国後島周辺でもアイヌを過酷に労働させた。これに対するアイヌの不満が爆発したのが、1789年(寛政元年)に発生したクナシリ・メナシの戦いである。この蜂起は松前藩によって鎮圧されたが、これを契機に江戸幕府は蝦夷地への関心を強め、ロシアの南下政策への警戒もあって、1799年に東蝦夷地を上知(天領化)し、国後島も幕府の直接支配下に置かれることとなった。
ゴローウニン事件の勃発と日露の対立
19世紀初頭、極東での活動を活発化させていたロシア帝国と、鎖国体制を維持しようとする江戸幕府との間で緊張が高まった。1811年(文化8年)、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長であったゴローウニン(ゴロヴニーン)が、千島列島の測量中に国後島に上陸した際、南部を警備していた幕府警備隊によって捕らえられる事件(ゴローウニン事件)が発生した。この背景には、数年前にロシア人レザノフの部下らが択捉島や樺太の日本拠点を襲撃した「文化露寇」に対する、幕府側の強い報復感情と警戒感があった。ゴローウニンは函館や松前に監禁され、日露関係は一時決定的な危機を迎えることとなった。
事件の解決と近世・近代における国境画定
この危機に対し、翌1812年にロシア側が報復として、淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛を国後島近海で拿捕・抑留した。しかし、嘉兵衛はロシア側と粘り強く交渉し、露寇がロシア皇帝の勅命によるものではないとする釈明書を幕府に提出させることで合意を取り付けた。これにより、1813年にゴローウニンと高田屋嘉兵衛は相互に釈放され、日露の衝突は回避された。その後、1855年の日露通好条約によって、国後島を含む択捉島以南が日本領、得撫島(うるっぷとう)以北がロシア領と画定され、日本の領土として確定した。しかし、第二次世界大戦末期にソ連によって占領され、現在も北方領土問題として未解決のまま推移している。