高田屋嘉兵衛 (たかたやかへえ)
【概説】
江戸時代後期に蝦夷地(現在の北海道)の箱館を拠点に活動した廻船業者、豪商。北前船を用いた蝦夷地航路の開拓や漁場経営で巨万の富を築き、幕府の蝦夷地直轄化政策にも深く関与した。日露関係の緊張下で発生した「ゴローウニン事件」の際には、ロシア側に捕らえられながらも、卓越した外交手腕によって事件を平和的解決へと導き、日露の危機を救った人物として名高い。
蝦夷地開拓と政商としての台頭
高田屋嘉兵衛は明和6年(1769年)、淡路島の貧しい農家に生まれた。のちに兵庫(現・神戸市)に出て船乗りとなり、頭角を現すと、寛政8年(1796年)に自ら建造した大船「辰悦丸」で箱館(函館)へと渡った。これが、彼が北方の歴史に深く関わる契機となる。
当時、北方ではロシアの南下政策に対抗するため、江戸幕府が蝦夷地への関心を強めていた。嘉兵衛は、幕吏の近藤重蔵らによる択捉(えとろふ)島探検を船舶の運航や物資の輸送面で全面的に支援した。さらに、困難とされていた国後(くなしり)島と択捉島間の航路を独力で開拓し、択捉島に17箇所の漁場を開設した。この功績により、嘉兵衛は幕府から「蝦夷地御用船頭」に任命され、箱館を拠点とした蝦夷地交易の主導権を握る。高田屋は単なる商人の枠を超え、幕府の対外・北方政策と深く結びついた政商として巨大な富と影響力を手にしたのである。
ゴローウニン事件と嘉兵衛の抑留
19世紀初頭、日露関係は極めて緊迫した状況にあった。文化4年(1807年)、ロシアの軍人らが蝦夷地近辺を襲撃した「文化露寇(フヴォストフ事件)」が発生し、幕府はロシアへの不信感を極限まで高めていた。
こうした中、文化8年(1811年)、千島列島を測量中であったロシア海軍の軍艦ディアナ号の艦長ゴローウニン(ゴローニン)が、国後島に上陸した際に日本の南部藩兵によって捕らえられ、松前や箱館に幽閉されるというゴローウニン事件が発生した。これに対し、ディアナ号副艦長のリコルドはゴローウニンの釈放を求めて翌年に再び国後島に来航するが、日露双方の不信感から交渉は全く成り立たなかった。焦燥に駆られたリコルドは、報復措置として付近を航行していた高田屋嘉兵衛の観音丸を拿捕し、嘉兵衛や部下の船員たちを拘束してカムチャツカ半島へ連行した。
「民間外交」による日露危機の回避
カムチャツカに抑留された嘉兵衛であったが、彼は決して屈することなく、ロシア側と対等な立場で対話を重ねた。嘉兵衛はリコルドの誠実な人格を見抜き、自らロシア語を学びつつ、日本の国情や法制度、文化を粘り強く説明した。この過程で、1807年のロシアによる襲撃事件が皇帝の命令ではなく一部の軍人の暴走であったことを、ロシア側が公式に証明(謝罪・釈明)すれば、日本側も態度を軟化させ、ゴローウニンを釈放するであろうという解決策を提示した。
文化10年(1813年)、嘉兵衛を伴って再び日本へ来航したリコルドが、嘉兵衛の助言に従って作成されたロシア側の公式な釈明書を提出した。これにより幕府側の警戒も解け、ゴローウニンらは約2年ぶりに釈放された。これと引き換えに、嘉兵衛やその部下たちも全員が無事に解放された。国交のない日露両国の間で、嘉兵衛という一人の民間商人が見せた命がけの「人間外交」は、全面衝突という最悪の事態(戦争)を未然に防ぎ、北方情勢に束の間の平和をもたらす決定的な役割を果たしたのである。