西蝦夷地 (にしえぞち)
【概説】
江戸時代における蝦夷地(現在の北海道・樺太・千島など)の地域区分の一つで、主に日本海沿岸部および樺太(サハリン)を指す呼称。松前藩の対アイヌ交易地として画定され、のちにロシアの南下に対応して江戸幕府の直轄領(天領)となった。
蝦夷地の地理的区分と「場所請負制」
江戸時代、松前藩の支配地域は、和人が定住する「和人地(松前地)」と、アイヌが居住し交易を行う「蝦夷地」に大別されていた。このうち蝦夷地はさらに、太平洋側から千島列島にかけての地域である東蝦夷地と、渡島半島の日本海側から北上し樺太(サハリン)に至る西蝦夷地の二つに区分された。
松前藩は当初、家臣に特定の交易地域を割り当てる「商場知行制」を採用していたが、18世紀に入ると和人商人に交易と地域支配を委託する場所請負制へと移行した。西蝦夷地は、ニシン漁や昆布採取などの商品産物の宝庫であり、日本海を往来する北前船の航路と結びつくことで、上方や江戸の経済と深く連動する重要な商業拠点となっていった。
ロシアの脅威と1807年の幕府直轄化
18世紀後半から、毛皮交易を求めてロシア人が樺太や千島列島に南下するようになり、北方警備が幕府の重大な課題に浮上した。幕府は1799年(寛政11年)にまず東蝦夷地を上知(直轄化)した。その後、1806年から1807年にかけてロシア船が樺太や択捉島の和人居留地を襲撃する事件(文化露寇)が発生したことを契機に、幕府は1807年(文化4年)に西蝦夷地も直轄領とした。
これにより、全蝦夷地が松前藩の手から離れて幕府の直接支配下に入り、松前藩主は陸奥国梁川へと移封された。幕府は箱館奉行(のちに松前奉行)を置き、津軽・南部・秋田・庄内などの東北諸藩に西蝦夷地の警備を命じた。また、アイヌを和風化させる同化政策や、道路の開削などのインフラ整備を進め、北方防衛の基盤を整えた。
支配の変遷と幕末の再直轄化
1821年(文政4年)、ロシアとの緊張が一時的に緩和したことや、幕府の財政負担を軽減する目的から、蝦夷地全域が松前藩へと返還され、西蝦夷地も再び藩領に戻った。しかし、幕末の1855年(安政2年)、日米和親条約の締結にともなう開国と日露通好条約の交渉本格化を前に、幕府は北方防衛の再強化のために蝦夷地を再び直轄化した(第二次幕領化)。
第二次直轄期において、西蝦夷地では樺太の国境画定交渉(日露雑居地の設定)や、対露警備のための強固な兵力配備が行われた。この幕府による北方支配体制は、明治維新を経て1869年に開拓使が設置され、近代的な「北海道」へと改称されるまで継続した。