松前奉行 (まつまえぶぎょう)
【概説】
江戸幕府が北方防備と蝦夷地支配の強化を目的に、1807年に設置した遠国奉行(おんごくぶぎょう)。従来の箱館奉行を改称・移転したものであり、全蝦夷地の幕府直轄化に伴い、対露警備と地域統治の最高責任者を務めた官職である。
ロシアの南下と蝦夷地直轄化の背景
18世紀末から19世紀初頭にかけて、日本近海にはロシア船が頻繁に現れるようになった。1792年のラクスマン、1804年のレザノフによる通商要求を江戸幕府が拒絶したことで、日露関係は緊迫化する。特に1806年から1807年にかけて発生したロシア船による樺太や択捉島の襲撃事件(文化露寇、またはフヴォストフ事件)は、幕府に強い危機感を与えた。
これに対し幕府は、従来の松前藩を介した間接支配では北方防衛が不可能であると判断した。すでに1799年に東蝦夷地を直轄化し、1802年に箱館奉行を置いていたが、1807年に西蝦夷地を含む「全蝦夷地」の上知(直轄化)を断行。これに伴い、拠点を箱館から松前城下へと移し、名称も「松前奉行」と改めて支配体制を大幅に強化したのである。
松前奉行の多面的な職務と北方探検
松前奉行の任務は、単なる地方行政にとどまらず、軍事・外交・探検の指導など多岐にわたった。奉行は津軽藩や南部藩、さらには仙台藩や会津藩など東北諸藩に動員令をかけ、蝦夷地各地の要所に兵力を配備して対ロシア防備の指揮をとった。
また、アイヌの反発を防ぎ幕府への帰順を促すため、それまでの松前藩による過酷な交易体制を是正し、アイヌの撫育(懐柔)政策を推進した。さらに、国防上の観点から北方の正確な地理的知見を必要とした幕府は、松前奉行の管轄下で探検事業を支援した。これにより、近藤重蔵による択捉島の領有宣言や、間宮林蔵による樺太(サハリン)の探検と間宮海峡の発見といった、歴史的な領土画定事業が実現することとなった。
ゴローニン事件と直轄支配の終焉
1811年、国後島に上陸したロシア海軍の艦長を南部藩兵が捕縛するゴローニン事件が発生した。これへの報復として、ロシア側は幕府御用達の商人であった高田屋嘉兵衛を拿捕。日露間の緊張は極限に達したが、松前奉行の仲介や嘉兵衛の機転を利かせた和平交渉により、ゴローニンの釈放と嘉兵衛の帰国が実現し、武力衝突は回避された。
その後、ナポレオン戦争の影響などからロシアの極東進出は一時的に沈静化した。これを受け、警備や維持に多大な財政負担を強いられていた幕府は方針を転換する。1821年に全蝦夷地を松前藩へと返還(復領)し、これに伴って松前奉行も廃止された。しかし、ここで培われた直轄支配の経験や北方警備のノウハウは、幕末の開国期における「箱館奉行」の再設置へと引き継がれることとなる。