生田万 (いくたよろず)
【概説】
江戸時代後期の国学者、および幕府の失政に抗議して挙兵した知識人。天保の大飢饉で困窮する民衆の救済を掲げ、大塩平八郎の乱に連動する形で越後国柏崎の陣屋を襲撃した。乱は即座に鎮圧されたものの、知識人による武装蜂起の先駆として、幕末の尊王攘夷運動や社会変革に小さからぬ精神的影響を与えた人物である。
平田国学への傾倒と越後への下向
生田万は、1801(享和元)年に播磨国(現在の兵庫県)の山崎藩分家である平野藩の藩士の家に生まれた。幼少期より聡明で学問を好んだが、館林藩(現在の群馬県)に仕官した際、藩政改革をめぐる建議が受け入れられずに追放処分となるなど、妥協を許さない峻烈な気性の持ち主であった。その後、江戸で復古神道を提唱する国学者・平田篤胤の門に入り、儒教や仏教を排した日本古来の精神(古道)を追求する平田国学に深く傾倒していった。
1836(天保7)年、万は妻子の実家を頼って越後国刈羽郡柏崎(現在の新潟県柏崎市)へと赴き、私塾「桜園書院(おうえんしょいん)」を開設した。ここで地方の神官や豪農、知識層などに国学や軍学を教授し、地域社会で次第に知られる存在となっていった。
天保の大飢饉と大塩平八郎の衝撃
万が越後に下向した時期は、19世紀前半を揺るがした「天保の大飢饉」の最中であった。冷害や洪水により日本全国で深刻な飢餓が発生し、越後地方もまた例外ではなかった。しかし、幕府や各藩の対応は極めて遅く、多くの領民が飢えに苦しむ一方で、特権的な商人による米の買い占めや、江戸・大坂への強引な米の移出が横行していた。こうした現実に対し、万は「天下の政治が正しく行われていない」と、幕府の無策への義憤を募らせていった。
そのような状況下、1837(天保8)年2月に大坂で発生した大塩平八郎の乱は、万に決定的な影響を与えた。大塩と万の間に直接的な連絡はなかったものの、元幕臣(与力)の陽明学者である大塩が民衆救済のために武器を取ったという事実は、地方の平田国学者であった万の心を激しく揺さぶった。万は大塩の精神に強く共鳴し、自らも行動を起こすことを決意した。
柏崎陣屋襲撃と「生田万の乱」の意義
1837年6月1日、生田万は門弟ら数名とともに、「大塩門弟」を自称して越後国にある桑名藩の柏崎陣屋を夜襲した(生田万の乱)。この襲撃の目的は、陣屋の武器や金を奪取し、それを飢える民衆に分け与えて幕府の失政を糾弾することにあった。しかし、事前の密告や動員の失敗もあり、襲撃は失敗に終わった。激しい戦闘の末、負傷した万は妻らとともに陣屋の近くで自刃して果てた。
事件自体はきわめて短期間で鎮圧されたものの、大塩の乱に呼応した反乱が、大坂から遠く離れた越後の地でも発生したことは、江戸幕府に深刻な衝撃を与えた。また、この事件は、従来の「百姓一揆」とは異なり、高い教養を持つ知識人(国学者)が社会変革を求めて自発的に武装蜂起したという点で画期的であった。支配秩序に疑問を投げかけ、実践行動に打って出た生田万の激烈な生き方は、後の幕末の志士たち(尊王攘夷派)における、草の根の行動主義の先駆的なモデルとなった。