鍋島直正(閑叟) (なべしま なおまさ / かんそう)
【概説】
江戸時代後期から幕末にかけての肥前(佐賀)藩第10代藩主。破綻寸前であった藩財政を立て直すとともに、日本初の反射炉築造など西洋技術の積極的な導入による軍備の近代化を推し進め、佐賀藩を幕末屈指の軍事・技術先進藩へと押し上げた人物。
破綻寸前の藩財政と藩政改革の断行
1830年(文政13年)、17歳で肥前(佐賀)藩第10代藩主に就任した鍋島直正が直面したのは、莫大な借金と破綻寸前の藩財政であった。当時の佐賀藩は、福岡藩と交代で務める長崎警備の重い負担に加え、江戸での奢侈な生活や相次ぐ自然災害によって深刻な財政難に陥っていた。直正は就任直後から徹底した倹約令を敷き、役人の大幅な人員削減といった行政改革を断行した。さらに、陶磁器(有田焼)や石炭、蝋などの特産品を扱う「国産方」を設置して専売制を強化し、莫大な利益を上げることで財政の黒字化に成功した。また、農村復興のために小作農の保護や均税を実施し、藩の経済基盤を揺るぎないものへと再建していった。
長崎警備の危機感と西洋軍事技術の導入
佐賀藩は地理的に長崎に近く、海外情勢の急激な変化を最も敏感に察知できる環境にあった。とりわけ1808年のフェートン号事件における佐賀藩の失態(警備の手薄さを突かれイギリス船の侵入を許した事件)や、1840年のアヘン戦争における清の敗北は直正に強い衝撃を与え、海防強化の必要性を痛感させた。直正は旧来の軍備を刷新し、西洋兵学の導入を強力に推し進めた。その象徴が反射炉の築造である。オランダの書物を独自に翻訳・研究させ、1850年(嘉永3年)に日本で初めて実用的な反射炉を完成させると、鉄製大砲の鋳造に成功した。これにより佐賀藩は幕府から品川台場用の大砲鋳造を請け負うまでになり、後には最新鋭のアームストロング砲の自作や、日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造まで成し遂げるなど、他藩の追随を許さない圧倒的な軍事・工業力を有するに至った。
蘭学の奨励と近代国家を担う人材育成
直正は技術の導入にとどまらず、それを担う人材の育成にも並々ならぬ情熱を注いだ。藩校である弘道館を拡充して身分を問わず優秀な若者を学ばせるとともに、蘭学を強く奨励した。医学館(好生館)を設立して蘭方医を育成し、牛痘法(種痘)が伝わると、自らの実子に接種させて安全性を証明し、藩内のみならず全国への普及に貢献した。さらに、有望な藩士を長崎や江戸、あるいは海外へと積極的に遊学させた。直正のこの先見的な教育方針により、佐賀藩からは大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任、佐野常民といった、のちの明治新政府の中枢を担う優れた人材が多数輩出されることとなった。
幕末政局における「佐賀の妖怪」と明治維新
圧倒的な軍事力と経済力を持ちながらも、直正は幕末の激動期において公武合体派や尊王攘夷派のいずれにも深く加担せず、慎重な中立・静観の姿勢を貫いた。各勢力が佐賀藩の動向を注視するなか、その底知れぬ態度から直正は「佐賀の妖怪」とも称された。しかし、1868年の戊辰戦争が勃発すると、直正は時流を見極めて新政府軍側につくことを決断する。佐賀藩が提供したアームストロング砲をはじめとする最新鋭の兵器と近代化された部隊は、上野戦争(彰義隊討伐)などで決定的な威力を発揮し、新政府軍を勝利へと導いた。この軍事的貢献により、佐賀藩は薩摩・長州・土佐と並ぶ「薩長土肥」として明治維新の立役者の一角を占めることとなった。維新後、直正は初代北海道開拓使長官などに就任し、日本の近代化への道筋をつけたが、1871年(明治4年)に病没した。