宇田川玄随 (うだがわげんずい)
【概説】
江戸時代中期の蘭学者、医学者。美作国津山藩の藩医であり、大槻玄沢の門下として活躍した人物。日本初の本格的な西洋内科学の翻訳書である『西説内科撰要』を著し、日本の医学近代化に決定的な影響を与えた。
大槻玄沢への師事と内科学への志向
宇田川玄随(名は晋、号は榛斎)は、美作国津山藩(現在の岡山県津山市)の藩医の家に生まれた。若くして漢方医学を学んだが、やがて杉田玄白や前野良沢らの活動によって興隆しつつあった蘭学(西洋学問)に関心を抱くようになる。江戸に赴いた玄随は、前野良沢の弟子であり、当時の蘭学界の指導者的存在であった大槻玄沢の私塾「芝蘭堂」に入門した。ここで頭角を現した玄随は、当時の日本の西洋医学が解剖学や外科学(外傷治療など)に偏重していることに疑問を抱き、病気の内因を究明する「内科学」の本格的な導入が必要不可欠であると確信するようになった。
『西説内科撰要』の刊行とその歴史的意義
玄随の最大の業績は、1793(寛政5)年から刊行が開始された『西説内科撰要』(全18巻)の翻訳・執筆である。これは、オランダの医学者ヨハネス・デ・ゴルテル(ゴルテリウス)の内科書を和訳したもので、日本初の本格的な西洋内科書として知られる。それまでの日本の内科治療は漢方医学が主流であり、経験則や陰陽五行説に基づく治療が行われていた。しかし、玄随が紹介した西洋内科学は、解剖学的な知見に基づき、病気の原因を物理的・生理的な機能障害として合理的に捉えるものであった。この著作の登場により、日本の医学界における西洋医学の受容は、外科(解体新書など)から内科の領域へと劇的に拡大することとなった。
津山宇田川家と近代科学への系譜
玄随は43歳という若さで没したが、彼が興した宇田川家の蘭学の系譜は、日本の近代科学の発展において極めて重要な役割を果たし続けた。玄随には実子がいなかったため、大槻玄沢の紹介で杉田玄白の弟子であった安岡玄真(宇田川玄真)を養子に迎えた。玄真は玄随の遺志を継いで『西説内科撰要』の改訂補足を行い、さらにその養子となった宇田川榕菴は、日本初の本格的な化学書『舎密開宗』や植物学書を著した。このように、玄随から始まる津山藩医・宇田川家の三代は、医学のみならず、日本の近代自然科学(物理・化学・植物学)の基礎を築く先駆者となったのである。